≪2003年2月5日掲載≫
子どもの虐待を知らせるホットライン
<イラン>
0歳になるハニエは小学校4年の典型的な女の子です。でも、最近、突然、驚くような行動に出ました。教科書からページを破り捨て、宿題をやらないと言い出したのです。宿題は「母親にして欲しいこと」でした。「母親なんか大嫌い!二度とそばに寄って欲しくないわ」とハニエは声を荒げて言いました。彼女は、物心ついてからというものずっと母親から心理的にも身体的にも虐待を受けてきたのです。
煖s待から解放されてすでにかなり経つのに、暴力を受けた日々を忘れることができずにいるのです。ハニエの母親には重度の聴覚障害があり、歯医者である父親はハニエが2歳のときに、研究をしたいとブルガリアに行ったきり帰ってこなかったのです。夫が突然と消えたことに狼狽したハニエの母親は、抵抗できない娘に向かって暴力を振るうようになりました。
焜nニエが6歳になったとき、母親は前の夫と離婚し、無職の薬物中毒の男性と再婚したのです。その新しい父親もまた、ハニエに暴力を振るい始めました。「学校に行くのを邪魔して、私を蹴ったり、ぶったりしたわ」ハニエは昔を振り返りながら語ります。宿題を手伝ってもらうどころか、手の平でぶたれたり、電気コードやベルト、本などで殴られたりしました。母親が教科書をハニエに投げたときには、目にあたり、危うく失明しそうになったこともありました。
烽アのひどい状態の中で、ハニエの母親は二人目の赤ん坊を産み、その子をハレと名づけました。まだいたいけな赤ん坊なのに、ハレもまたお姉さんと同じ虐待にさらされ始めたのです。ある日、ハニエはあまりの暴力に耐えかねて、家を飛び出てしまいました。逃げることに必死だった彼女は、危うくトラックにひき殺されてしまうところだったと言います。母親がハニエを引きずりながら家に連れ戻そうとする中、彼女は道行く人々におばあさんを呼ぶよう懇願しました。
焉u現場についたときには、私たちもどうしていいか分かりませんでした」と回想するのはハニエのおばあさんです。おばあさんは、娘と話をしても無駄だと悟り、「ヘルプライン」に電話をすることにしました。ヘルプラインは2000年にユニセフがイラン福祉省と擁護施設局と共同で設置したホットラインで、心理的・肉体的、あるいは情緒的虐待を受けている子どもたちを助け、カウンセリングを行っている専用電話です。
焜|スター、パンフレット、カード、新聞広告などでヘルプラインの宣伝がなされ、子どもの虐待について一般の人々に知ってもらう努力がなされています。その結果、実際に虐待を受けている子ども本人から、あるいはそのほかの人たちから虐待の報告がホットラインに入るようになったのです。ヘルプライン自体は、本来、施設やフォスター・ペアレントのもとで暮らしている子どもたちを対象に設置されたのですが、家庭の中で虐待を受けている子どもたちも、同じような助けを必要としていることが、多数の報告例から分かってきました。ヘルプラインに掛けられた電話は、今日まで350通話に上ります。週に平均14通の電話が掛かってきている状態なのです。
烽ィじいさん、おばあさん、そして福祉省の担当官の助けがあったおかげで、ハニエは、暴力を振るう両親の元から離れることができました。彼女は10日ほど福祉省の擁護施設で過ごしてからおじいさん、おばあさんに引き取られていきました。
熏。日、ハニエは喜んで学校に行き、成績も優秀、バスケットボール、水泳、絵画のクラスなどをとって楽しんでいます。家に帰ればまっさきに宿題をし、それから好きなテレビ番組を見ます。おばあさんは、今まで暴力を振るっていた娘(ハニエの母親)に、ハニエに会いに来るよう説得を試みましたが、会ったとたんに母親はハニエの耳近くをひっぱたいてしまいました。「母親になんか会いたくない。だって、私はぶたれて、はたかれて、傷つくだけなんだもの。悪口ばかり言われて!」とハニエは頑固に母親を拒絶します。
焜nニエにとって、生活は前よりもずっと良くなりました。でも、妹のことを思うと心配です…「妹も私と一緒におばあさんのところで住めるといいのに。妹は今日も辛い思いをしているんだわ。かつての私と同じように」
イラン、テヘラン2003年1月27日発
ユニセフ・イラン事務所
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