ユニセフ アフガニスタン緊急支援プログラム 特別代表 ナイジェル・フィッシャー氏
報告会レポート
続く人道危機と復興への希望を語る
アフガニスタン復興支援国際会議に出席するために来日した、ユニセフ・アフガニスタン緊急支援プログラム
特別代表 ナイジェル・フィッシャー氏を招き、1月23日にユニセフハウスで報告会が開かれました。
日本ユニセフ協会は、9月末からアフガニスタンの子どもたちのための緊急募金を開始し、この3ヶ月間に集まった募金は13億円を突破しました。すでに12億5千万円が現地に送られています。
現地では、3月21日からの新学期にあわせて全国的に学校が再開されることが決まり、それに向けての準備が急ピッチで進められています。
約3ヶ月前にも来日して報告会で支援を訴えたフィッシャー氏。短期間に起こった劇的な変化に素直な驚きをあらわすとともに、復興が注目される中、いまだ人道支援が必要な状況は脱していない、と現在のアフガニスタンの状況を語りました。
◆ナイジェル・フィッシャー氏からの報告◆
3ヶ月ほど前にここでみなさんに話しましたが、あれからあまりにもいろいろなことが起こり、まるで5年も前のことのように思えます。
3ヶ月前には、第1回目の物資輸送隊が出発し、支援物資をロバにのせてパキスタンとの国境を越えた、という話をしました。今では全面的な支援物資の配給活動が再開されています。
まずは、アフガニスタンのユニセフの活動に対してここ数ヶ月の間に多大なる支援を寄せてくださった日本政府、日本のみなさんに感謝します。
私たちは、今年の終わりまでの予算として1億5千万ドルを必要としていますが、今のところ、まだその半分くらい(7500万米ドル)しか集まっていません。そのうち実に3200万米ドルは日本から寄せられたものです。日本政府が2200万米ドルを拠出し、残りの1000万ドルは日本の民間のみなさまから寄せられています。心からお礼申し上げます。
10月以降のアフガニスタン
10月にここで話をしたときには、近い将来に何が起こるかを予測しようとしていました。何百万人もの難民がパキスタンやイランに流れるだろう、と予測しましたが、実際には、悪夢のような難民問題は起こりませんでした。多くが国内に留まり、国内避難民が大量に出たのです。
当時、外国人スタッフは安全上の問題からアフガニスタン国内に入ることができませんでしたが、アフガン人スタッフがずっと留まっておりました。空爆の間もヘラート、マザリシャリフ、カブール、ジャララバード、そして最悪の戦闘があったカンダハルにさえスタッフは留まり、活動を続けました。非常に危険な状況の中、車隊を組んで国境まで来て、支援物資を運び、配布する活動を続けました。私は同僚のその勇気をたたえたいと思います。そして、これまでに70以上のコンボイ(支援物資を積んだトラック隊)が国境を越えて支援物資を運んでいます。
3ヶ月前は、一刻も早く援助物資を届けなければ、最悪12万人の子どもが亡くなるのではないか、と予測していました。今、最悪の結果は避けられたようです。しかしそれでも、一部の子どもたちは、栄養不良や病気でこの冬命を失ってしまうでしょう。まだ、私たちの支援がまだ届かない治安の悪いところがあるのです。
しかし、暫定政権と新しいパートナーが協力していけば、恐れていた最悪の事態よりは、子どもたちの死亡率を低く抑えることができると思います。
人道危機は続いている
9月11日前のアフガニスタンでも、4人にひとりの子どもが5歳未満で亡くなるという状態にありました。妊産婦死亡率は世界で最悪です。子どもたちの半分は慢性的な栄養不良であり、生まれる前からずっと栄養不良にさらされています。
ユニセフは、人道援助物資をアフガン国内に届けています。防寒具、テント、毛布…。彼らをあたたかくするものが必要です。夜間の気温はマイナス15〜20度にもなり、栄養不良の上に毛布もなくテントで夜を過ごさなければならない子どもたちは、冬を生き延びることができません。子どもたちを死なせない、これがここ数ヶ月の最大の目標でした。
ここ数日にわたり、アフガニスタンの将来について話をしておりますが、まだ人道的な危機が続いていることを忘れてはならないと思います。国内には避難民が多くおり、難民もいます。今も死亡率はきわめて高く、何百万人もの子どもが栄養不良にさらされているのです。
オサマ・ビン・ラディンが隠れているとして攻撃されたトラボラ地域などは、治安が非常に悪く、支援を届けたくてもそこへ行くことができません。
北部の状況は改善されていますが、干ばつの被害が大きく、冬は雪や雨が降る季節なのに、冬になって2ヶ月、まだ十分に降っていません。干ばつになってすでに3年、この状態がまだ続くのではないかと予想されています。このままでは帰ってきた避難民たちはどうなるのでしょう。農業もできず、食料も生産できません。人道危機は続いているのです。
他にも問題は山積しています。例えば地雷です。アフガニスタンは最も地雷の敷設数が多い国ですが、不発弾もたくさん残っています。この紛争では多くの小型爆弾が使われましたが、一部オレンジ色をしているものもありました。おもちゃだと思った子どもが手に取って爆発する、ということも起こっています。
5000人の国連の地雷除去スタッフが、地雷がどこに埋められているかを確認し、そこに表示を出して人びとが入らないようにする作業をすすめています。子どもたちの通学路はまず地雷を除去して安全を確保しなければなりません。資金が手に入り、迅速に作業が進んだとしても、すべてを除去し、ようやく安心して農業をしたり水くみをできるようになるには、10〜15年かかるでしょう。人びとに、地雷について知識を広める活動も重要です。
生まれてきた希望
しかし、ここにきて初めて危機に対する不安だけでなく、一縷の希望をもつことができるようになりました。将来を考えることができるようになってきたのです。
アフガニスタンの人は、大変にタフで、誇り高き民族です。カルザイ暫定行政機構議長が言うように、アフガニスタンの国民は、外国の支援で永久にやっていこうというような人びとではありません。なるべく自立をしたいと考えています。
私は12月のはじめになって、紛争後はじめてカブールに入りました。あまりにも大きな変化があったので、びっくりしました。
まだブルカを着ている人は多くいますが、男性の親族が一緒でなければ外出できないということはなくなりました。タリバン政権下では、歌舞音曲は禁止されており、子どもたちはすべり台で遊ぶこともたこあげもできませんでした。ところが、12月に戻ってみると、子どもたちは笑って遊んでいて、音楽も聞こえました。
ブルカを外し顔を出しているような勇敢な女性もいました。ほとんどの女性がまだブルカをかぶっていますが、それは安全のためでしょう。銃を持っている人も多く、男性が銃を持っていれば、それは暴力を意味するのですから。
政府ができ、エネルギーが感じられます。この政府は変化を起こすことができるだろうと考えています。
教育を最優先に
アフガニスタン復興支援国際会議では、カルザイ議長をはじめ、すべての政府、参加者がみな口をそろえて、優先課題は教育、特に女子の教育であると話しました。教育の欠如、教育制度がないことが多くの問題の根元となり、今回の危機の原因でもあったのです。
教育制度がなかったために、多くの人が子どもを"宗教学校"へ送りました。そこでは、コーランを学ぶことができますが、同時に「憎悪」を心に植え付けられました。そのため、子どもがタリバンやアルカイダの兵士になっていきました。
だからこそ今、教育、それも質のよい教育がすべての人に必要です。教育とは、学校に行き、机の前に座ることではありません。学習できる、考える、質問することができる、一緒に何かをする、お互いの違いを理解できる、そういう状況のことです。
教育について、私たちは今、期限を定めた目標に向かっています。3月21日(アフガニスタンの新年)に、150万人の子どもたちを小学校に戻そうというものです。
タリバン政権下では学校教育制度はありませんでした。学校は地下で行われており、ホームスクール(個人の家庭で開かれる学校)が開かれていました。もし発覚すれば処罰されますが、それでも20万人の子どもたちがホームスクールに通っていました。また、NGOが主催する学校などで学習する子どももいました。実に数十万人の子どもたちが隠れて勉強していたのです。
学校がはじまったときにしっかり教材や資材が準備されているようにがんばっていますが、みんな待ちきれないというように、大都市ではすでに学校がはじまっています。
人びとが政権を信頼し、将来について希望を持てるようになるには、目に見える、形のある変化が必要です。20年も変化がなかったのですから、人びとは変化を見たいのです。150万人の子どもが学校に通いはじめたとしたら、それは本当に大きな変化です。今、私たちはそのために懸命に努力しています。
これまで、NGOなどと協力し、パキスタン北部で新しいカリキュラムづくりを行ってきました。ちょうどカリキュラムができたので、教科書などを印刷し、数週間のうちにアフガニスタンに届けることができると思います。しかし、インフラが整備されていないので、教材や黒板、文房具などを運ぶのも大変です。
また、1万人の先生が必要とされますが、その先生がどこにいるのか見つけなければなりません。またタリバン政権は5年にわたって女性の就労を禁止していたので、「5年前先生だったから、また教えたい」という女性がいても再研修が必要です。日本のNGOともこの分野でぜひ協力しながら、この学校復帰プログラムをすすめていきたいと思っています。
山積する問題
・治安の悪い場所への支援
政府は、特に昔からけしの花を栽培してきたようなところでの学校再開を強く求めています。ご存知のように、アフガニスタンはヘロインやアヘンの産地となっています。タリバン政権下でけし栽培はやめられましたが、国際市場に送るだけの備蓄があります。貧困が厳しいカンダハルやナンガハーのあたりでは、けしの栽培がはじまるかもしれませんし、それに子どもたちが関わることもあるかもしれません。
しかし、こうした地域にはタリバンの同調者が多く、学校を再開するにも治安の問題があります。軍部と治安についての話し合いを続けていますが、残念ながら安心にいたるまでの回復はありません。
・保健と栄養面での改善
9月から11月にかけて、WHOや多くのNGOと協力して予防接種デーを決めて実施してきました。空爆がもっとも激しかった11月にも、ボランティアが家から家をまわって、400万人の子どもたちにポリオの予防接種とビタミンAの投与を行うことができました。素晴らしい成果だと思います。
今度は予防接種を制度化したい、保健制度を定着させたいと考えています。新しい保健省と協力し、はしかの予防接種からはじめたいと思います。
また、女性の保健面でのケアが必要です。タリバン政権下で、女性は医療へのアクセスがほとんどありませんでした。男性の医者とは直接対面できず、カーテンにさえぎられ、女性は男の親族に自分の症状を話し、その男性が医師に伝え、医師は想像で診療するのです。これがいいヘルスケアといえるでしょうか?
今、女性で保健員や医者だった人に再研修を受けてもらい、新しい医療スタッフとしてもう一度働いてもらおうとしています。妊産時に多くの女性が亡くなっています。もっとも急を要するのは妊産婦ケアでしょう。
・栄養不良とたたかう
アフガニスタンでは、子どもの50%が慢性的な栄養不良に陥っています。現在、活動しやすい地域(ヘラートからバダクシャンのあたり)で、専門家を入れて子どもの栄養状態をモニタリングする事業を行っています。そして、もっとも栄養状態の悪い子どもたちを支援できるようにしたいと思っています。
・子どもの保護
子どもの保護には多くの分野が考えられますが、例えば子どもの兵士の問題があります。新政権で重要なことは、どのように武装解除していくか、子どもたちにもっと意味のあることや生き方をどのように伝えるか、ということです。
今、私たちは、全国青年隊をつくろうと計画中です。学校や病院をつくるなど実際の国づくりに彼らに関わってもらおうというのです。これまでのところ、こうした若者たちを吸収する青少年センターや職業センターなどの仕組みはありません。ですから、この事業もゼロからの出発になるでしょう。
地雷に対する意識向上も重要です。タリバン政権下では、女性とコンタクトをとることができませんでしたが、畑で働いたり、家畜の世話をしたりしている女性に地雷の危険を伝える必要があります。
これについてはラジオ放送がよい手段になります。現在カブールラジオがすでに放送をはじめており、そのうち全土で聞くことができるようになるでしょう。BBCラジオもよく聞かれているので、ここにもアプローチしています。放送される家族ドラマに「不発弾が…」「地雷が…」と話しているようなシーンを盛り込むなどの工夫をしています。
少年司法についても考えなければなりません。法務大臣とも話をしていますが、子どもとおとなは違い、子どもには子どもとしての裁きと保護が受けられるようにしなければならないと伝えています。
・女性や子どものトラウマ
今回の暫定政権では、女性省ができました。大臣も女性です。資金の少ない省なので、ユニセフはここも支援していきたいと考えています。
アフガニスタンには、数万人という未亡人がいて、仕事もありません。道路で座り込んでいる人がいれば、それは金銭をねだる人か未亡人です。彼らのためのシェルターづくりや職業訓練をしたいと考えています。
また、家庭内暴力も多くあります。性的暴力があっても言わない社会なので、あまり目立ちませんが、そのためになおさらひどいトラウマがあります。女性のシェルターをつくり、そこで話すことができるようにしたり、トラウマのひどい人には、心理学者や精神科医による専門的なケアが受けられるようにしたいと思います。
そして、こうした女性や子どもの問題を克服するために、地域の活動員や保健員、教員などの訓練もしたいと考えています。これまで、ルワンダやシエラレオネでも経験がありますが、(トラウマを抱えた)子どもたちの多くに臨床医は必要ありません。ただ安定があればいいのです。愛している家族がおり、学校に行き、通常の生活をすれば、子どもたちは回復します。
多くの複雑な問題があり、人道危機は残っています。家のない避難民が、栄養不良や防げる病気で亡くなっている子どもがいます。こうした緊急事態にあっては楽観的に、希望を持たなければなりません。しかし一方で現実的になる必要もあります。
私たちが活動を続けているのは、世界に手を差し伸べてくれている人がたくさんいるという支えがあるからです。そして大きな支援を寄せてくださっている日本のみなさんにも感謝します。
**********
◆勝間 靖さんからの報告◆
昨年12月までユニセフ・アフガニスタン事務所 評価モニタリング担当官をつとめた勝間 靖 氏(現ユニセフ駐日事務所 事業調整官)から教育を巡る現地でのエピソードが報告されました。
一昨年の夏、はじめてジャララバード郊外のホームスクール(個人の家で開かれている学校)を訪れました。ジャララバードの事務所を車で出たのですが、しばらく町の中をぐるぐるまわって、だれもつけてないことを確認してから目的地へ向かいます。町の一角で降り、さらに1kmほど歩きました。細い小道をぐるぐるまわり、ある1軒の家の前につくと、"トントントン"と合図をし、誰もついてきていないことを確認してからこそっと入ります。アフガニスタンの家は塀に囲まれているが、中に入ると、一面畑があり、その中に小さい家がありました。家の中には誰もいないようでしたが、よく見ると畑の中に藤棚があり、その下で子どもたちが勉強していました。それがはじめて見たホームスクールでした。
いつも考えていたのは、女性の教師はなぜここまでして教育するのだろうということです。お給料もなく、近所の人が出し合ってくれるなけなしの金で生活しています。禁止されていることをしているので非常に覚悟してやっています。そこに子どもを送り出す親もおびえながらやっているのです。
行くたびに「なぜここまでしてやるのか」と尋ねましたが、「わたしは教師だから、義務だから」と言われるだけでした。
ジャララバードでホームスクールを組織している男性から、タリバンの男性が娘をその学校によこすようになった、と聞き驚いたこともあります。実際、タリバンのメンバーの中にも自分の娘や子どもをペシャワールやクエッタに住まわせて教育を受けさせている人もいるんです。タリバンの中にも教育が大事だと思っている人がいました。表で言っていることと裏は違うな、という印象でした。
ヘラートの国内避難民キャンプでの話です。避難民キャンプには、栄養不良、予防接種ができない、下痢が蔓延する、水がないなどさまざまな問題がありますが、子どもたちは何もすることがない状況でした。そこで、ここにテントをはり学校をはじめました。女の子への教育もいいと言われたので、女の子の学校もはじめたのですが、しばらくすると宗教警察が来て、全部つぶしていってしまいました。
即刻ヘラートの知事のところへ行き、談判した結果、10日後に学校を再開することができた、ということもありました。 このようにこれまで教育をめぐってはいろいろな試みを続け、荒廃した国土を巡りながら、教育こそが大切なのだと思う気持ちは強くなりました。そして、今の状況を迎え、ユニセフは3月21日に子どもが学校に戻れるように活動をしているわけです。
アフガニスタン復興支援国際会議では、復興に焦点が当たっており、それはよいことだと思いますが、緊急支援から復興に入るまでの間、両者をつなげることも求められています。復興と同時に緊急支援活動も続けなければならない、という状況なのです。
みなさんから支えられた資金により、栄養補助食の提供、予防接種、地雷の被害を防ぐ活動などがすすめられています。
私も今は東京から間接的に支援することになりましたが、これからも皆様のご支援をよろしくお願いいたします。
**********
◆Q&A◆
会場にお集まりの一般の方からのご質問に、フィッシャー氏が答えました。 |
Q: |
今回の紛争では「子どものための平和の回廊」はつくられなかったと思いますが、実際には、それをつくる努力はあったのでしょうか?
またなぜつくられなかったのでしょうか? |
A: |
「子どものための平和の回廊」は、1980年代半ばにエルサルバドルで導入されたものです。ユニセフが政府と反乱軍との間で話をつけ、3ヶ月間、月に1回の休戦日を設けて予防接種などを行うというものでした。スーダンやレバノンでも実施されました。
私は、この件で湾岸戦争時にイラクと交渉したことがあります。必要な医療品をバクダッドに届けてくれとお願いしたのです。この時は、8時間だけ物資が通れるようにバグダッドとイランとの国境線では爆弾を投下しないという約束にいたりました。
アフガニスタンの場合、この交渉は楽ではありませんでした。もちろん、タリバンやアメリカと連絡を取り、いつどんな輸送車隊が動いているかを通知しました。確約はもらえませんでしたが、輸送車隊を攻撃されることはありませんでした。
例えば、通知して彼らが何も言わなければ、大丈夫だなと判断してそのまま輸送隊を出しました。あまりよくない、2、3日待ったほうがいいと言われれば、待ちました。実際、そういう時には空爆があることもありました。平和の回廊はつくれませんでしたが、相当信頼性の高い情報は得られていたと思います。
活動を進める私たちに対し、予防接種をするな、子どもたちが空爆でやられてしまう、と言われたことがあります。私たちは、疫学的な理由から予防接種は必要だ、一定の期間で実施しなければならない、と説得しました。国際的なキャンペーンをはることはしませんでしたが、相当なコミュニケーションが存在したことは確かです。
ポリオの予防接種は経口投与なので、専門家でなくても個別訪問で実施できるものです。私たちはワクチンを輸送車隊にのせ、安全に届くようにすればいいのです。予防接種の実施にあたっては、3万人のボランティアに継続的に働いてもらいました。アメリカなどにも、どこにワクチンを保管しているかを伝え、空爆されないように努力しました。
とはいえ、休戦の日が本当にほしかったと思います。子どもに"敵"はいないのです。子どもたちが生き延びられる空間はつくらなければなりません。しかし、平和の回廊も休戦の日もありませんでしたが、幸運にもうまくいきました。
(協会からコメント)ユニセフはFIFAと協力し、ワールドカップの期間中に停戦日を呼びかけよう、という計画をすすめています。
|
Q: |
空爆による子どもや女性の被害にはどのようなものがあったのでしょうか? |
A: |
アメリカはスマート爆弾と呼ばれる爆弾やレーダー誘導の武器も使いました。しかしすべてが標的に"スマート"に命中したわけではなく、住宅街に落ちたものもありました。
ひとつ爆弾が爆発すると、その爆発物は5マイルも10マイルも周囲に飛び散ります。今、国連でも地雷除去をしていますが、こうして散ったものまで処理しなければならないという複雑な要素が加わっています。
ラジオを聞いていて、人びとはいつどこで空爆があるか、かなりわかっていたようです。何千人、何万人もが亡くなったと思いますが、それ以上死ななかったことは奇跡です。
しかし、何万人もの誰も支えてくれる人がいない未亡人や親を失った子どもたちが生まれています。彼らに日常性を取り戻すことが大切です。子どもの場合は、遠い親戚でも彼らを受け入れています。これは子どもたちが回復する上ではプラスに働くアフガンの伝統でしょう。 |
Q: |
今回のアフガニスタンの状況について、内部から変化していくより、外部からこうした状況が生まれたことで、女性や子どもたちにとっての改革は早まったといえるのでしょうか? |
A: |
タリバン政権が続いていれば、抑圧が続いていたでしょう。教育も保健もなかっただろうと思います。空爆が起こったことはいいことではありません。ただ、外からの圧力で、9月には予想もできなかったほど、相対的に早く結果が出たと思います。しかし、どちらの悪がよいかということはできません。
タリバンだけが悪かった、タリバンだけが女性を抑圧していたというのは間違っています。アフガニスタンは非常に保守的な社会であり、女性が外に出たり、学校に行くことをためらう、そういう文化があります。女性にとってはこれからも試練が続くでしょう。ただ、宗教的な過激派もいますが、政治的に正しい考え方をもっている人もおり、弾力性はあると思います。 |
**********
◆ユニセフ・アフガニスタン緊急支援プログラム特別代表◆
ナイジェル・フィッシャー氏[Mr. Nigel Fisher]略歴 |
現在、ユニセフ南アジア地域事務所代表。(2001年9月17日付でアフガニスタン緊急支援プログラム特別代表を兼任) |
カナダ国籍。マックマスター大学において政治学の修士号を取得。 |
1990年〜94年にかけて、ユニセフ 中東・北アフリカ地域事務所副代表
兼 ヨルダン、シリアおよびヨルダン川西岸・ガザ地域の地域代表。この間、フィッシャー氏は湾岸危機(1990年〜91年)におけるユニセフの緊急支援プログラムを統括。1992年には、イラク北部における国連の緊急支援活動の責任者を4ヶ月にわたり務める。 |
1994年7月〜95年初めにかけて、ルワンダ担当のユニセフ特別代表。内戦直後のルワンダ国内および周辺各国のルワンダ難民に対するユニセフの支援事業を担当。
その後、ユニセフ・ニューヨークの緊急事業部長として、人道支援活動の統括 および 緊急支援政策と戦略の見直しに取り組む。 |
※ナイジェル・フィッシャー氏は、2002年1月25日付で「国連アフガニスタン人道問題担当特別副代表」に任命されました。記事中の肩書きは2002年1月23日現在のものです。 |
アフガン難民緊急募金へ |