リーアさんのおはなし

今は18さいになるリーアさん

リーアさんは今18さい。コルカタ(カルカッタ)の人通りの少ない路地にあるアパートに、お母さんと暮らしています。家賃は6000ルピー(約1万5000円)だそうです。インドのもののねだんを考えると、少し高めです。家の中には家族の写真やヒンドズー教の神さまの絵がかざられており、キッチンは他の人との共同でした。大きなベッドとテレビが部屋の中においてあります。天じょうには、インドの他のたてものと同じように、大きなプロペラ式せんぷうきがついています。(インドのふつうの家庭には、日本のようにエアコンなどまずありません。家どころか、レストランやお店も、こうきゅうな所いがいはほとんどせんぷうきです。もちろん、電気の通っていない村などではせんぷうきすらありませんが・・・)。

私がソーシャルワーカーさんとシュクラムカジさんに連れられて部屋に入ると、リーアさんは最初おどろいたような顔をしました。でもすぐに笑顔にかわりました。インドでは、よほど小さな女の子や都会のお金持ちの家の人をのぞいては、女性はみんなサリーかサルワールという、でんとうてきな服を着ています。でも、リーアさんは水色のワンピースを着ていました。インドではめずらしく、かみを茶色にそめています。リーアさんは英語を少しだけ話せたので、私たちはベンガル語(インドの西ベンガル州やバングラディッシュで話されていることば)の通やくさんを通さずにじこしょうかいをすることが出来て、あっという間に仲よくなりました。

リーアさんのお母さん(右)と、シュクラムカジさん

しかし、私はリーアさんとリーアさんのお母さんの話を聞いて、言葉を失いました。なんと、リーアさんは12さいの時に売春をはじめたそうです。それも、お母さんといっしょに!

いったい、どんな母親が自分の娘にそんなことをさせるのか?しかも、12さいの女の子に!私は12さいのとき、何をしてただろう?私のお母さんは、そのときどんなお母さんだった?リーアさんのお母さんは、娘のことをちゃんと考えているのか?この2人になにがあったの?どうして他の方法をえらばなかったの?

たくさんの疑問が頭にうかびました。それと同時に、私はリーアさんのお母さんをゆるすことができませんでした。「どうしてたった12さいの女の子、しかも自分の娘に、そんなひどいことさせたんですか!?あなたはそれでも母親なの!?」口から言葉が出た直後に、強く言いすぎたかなと反省しました。お母さんもリーアさんと同じで少しだけ英語の話せる人だったので、私の言ったことは分かったようです。カッと目を見開き、顔のひょうじょう一つ変えないで、だまっていました。しばらくしてカタコトの英語でこう言いました。「こうするしかなかったのよ」。

それでもやはりなっとくのいかなかった私は、「でも・・・・」と言いかけましたが、お母さんのひょうじょうがだんだんけわしくなってきたので何も言えなくなってしまいました。お母さんは言いました。「あなたは日本人?日本はお金持ちなんでしょう?たぶんあなたのような人には私たちのことはなかなか分からないだろうね。」私は、とりあえずこの2人に起きたことをだまって聞いてみることにしました。

 

学校にかよっていたころのリーアさん

この母娘は、コルカタのある西ベンガル州のとなりにあるオリッサ州という所にもともと住んでいました。しかし、お父さんが糖尿病(とうにょうびょう)という病気になってしまったので、ちりょうのために、しんせきのおじさんをたよってコルカタにやってきました。リーアさんは、2年生までイングリッシュ・ミディアム(インドの小学校のタイプの一つ。インドにはたくさんのことばがあるので、たいていの学校はそのちいきのことばで授業を行いますが、イングリッシュ・ミディアムでは英語で行われます。)に通いましたが、お母さんたちとコルカタに来るときに学校をやめました。

お父さんを入院させてコルカタでの新生活がスタートしたのですが、身をよせていたしんせきのおじさんの家で、リーアさん母娘は大変なめにあいます。おばさんから食べ物をもらえなかったり、いやがらせをうけたりするようになったのです。しまいには、リーアさんはまだおさなかったのに、50代のおじさんは体をさわったりなぐったりするようになったのです。おとなの人が小さな女の子に対してこういうことをする事件は、ざんねんながらさいきんどんどんふえてきています。みなさんは、きょねん広島県で小学生の女の子が殺されてしまった事件を覚えていますか?あのときのはんにんも、このように、ひがいしゃの女の子にせいてきにぼうりょくをふるってから殺してしまいました。

このままでは本当にあぶないとはんだんしたお母さんは、リーアさんを連れて家を飛び出すことにしました。しかし、コルカタのような大都会にはあてもないため、母娘は生きるために売春をせざるをえませんでした。リーアさんが12さいのときでした。

ここまで聞いても、私はまだなっとくできていませんでした。まちには、売春いがいにもたくさんの仕事があるのに、どうしてこれにしてしまったの?なんでお母さんだけじゃなくて、リーアさんもするひつようがあったの?

リーアさんに聞いてみました。「12さいではじめてこういうお仕事をして、さいしょはどうだった?」すると、こんな答えがかえってきました。「体中がとてもいたくていたくて、ねても起きてもいたくていたくて。病院に行ったけど、なおるのに何日もかかって、かえってお金がたくさんかかっちゃったの」。今では、リーアさんも病気がちになってしまったそうです。

お母さんがどんな人生を歩んできたかが急に知りたくなりました。お母さんは続けました。

リーアさんのお母さんは、7年生(インドでは5さいが1年生なので、7年生は日本でいう小学6年生にあたります)のときにがっこうをやめました。親が結婚をさせることにしたからです。(18さいにならない子どものけっこんは、今ではほうりつできんしされています。女の子は18になるまでけっこんをしてはいけない、というのが今のインドのルールなのです。でも、農村では、まだまだ小さな女の子が親の決めたあいてとけっこんをさせられています。これについても、後でくわしく書きますね)このあいての男の人は、お母さんのさいしょのだんなさんでした。でもリーアさんのお父さんではありません。

2人の男の子も生まれました。ふつうの家庭・・・のはずでしたが、お母さんが23さいになったときに、だんなさんがこころの病気にかかってしまって、お仕事ができなくなってしまったのです。そんなときにお母さんに近づいてきたのが、人身売買(人にねだんをつけて、モノのように売ったり買ったりすること)を行うそしきの男でした。

「ムンバイ(インド最大の都市)に行きませんか?オフィスでの仕事があるんですけど」。その男は言いました。「たくさんお金をかせげますよ。お金がたまったら、村の家族のもとにもどればいい」。

お母さんは、「あやしいな」と思ったけど、ほとんどきょうせいてきに、ゆうかいのようにつれられていきました。そして、何度も何度も売られては買われてゆき、さいしゅうていにはムンバイの売春宿にたどりつきました。その間、6000ルピー、げんざいの感覚で言えば、10万ルピー(約25万円)ものお金が合計ではらわれた計算になるそうです。だまされてつれてこられてしまったお母さんは、1時間に多いときで3人もの人のあいてをしなくてはいけませんでした。でも、なんとか村に帰ろうといっしょうけんめい考えました。ちょうどそのころ、おかあさんがいないことをあやしく思っただんなさんや息子たちが、お母さんのことをけいさつに言いました。3カ月後、お母さんはぶじににげることにせいこうしました。

お母さんの帰りに、だんなさんも子どもたちも大喜び。しかし、売春宿にいたお母さんは「けがれている」そんざいとして、だんなさんの家族やしんせき、それに、村の人々からはさべつされ、受け入れてもらえなくなっていました。村にいばしょがなくなったお母さんは、村の他にはムンバイの売春宿しかあてがなかったため、しかたなしにムンバイにもどっていきました。小さな子どもをのこして、さぞつらかったことでしょう。ムンバイでは、また同じところで働きました。しかし、なかなかお金はたまりません。というのは、売春宿のオーナーから「病院のお金」「ごはんのお金」「すむところのお金」・・・・というように、どんどんおきゅうりょうから引かれていってしまったのです。このように、力の強い人がそうではない人の持っているものをどんどんもらってしまうことを、「搾取(さくしゅ)」といいますが、お母さんはまさに、オーナーからさくしゅされていたのです。

そんなとき、リーアさんのお父さんと出会いました。二人はすぐに仲よくなり、けっこんすることになりました。お母さんはムンバイから今度こそにげだすことができたのです。二人はこうして、オリッサにひっこしました。リーアさんが生まれて、決してお金持ちではないけれども家族はとてもしあわせにくらしていました。しかし、お父さんが病気になり、三人はコルカタに行かなくてはならなくなったのです。

村にのこした息子はというと、一人は早くに病気で死んでしまいました。もう一人の方は、たまに手紙などを書いたりしますが、あまり仲はよくないそうです。というのも、お母さんがじゅうぶんなお金を送ることができなかったからなのだそうです。お母さんはそのことを、今でもくやんでいます。

どうしてリーアさんとお母さんが、売春という方法いがいの道でお金をかせげなかったのか、どうしておかあさんだけではなくてリーアさんまでもがいっしょに働かなくてはいけなかったのかが、この二人と話していてなんとなくわかった気がしました。

まず第一に、売春いがいの方法でのお金のかせぎかた(例えば、レストランで働いたり、お金持ちの家の人の家でお手伝いさんとして働いたり)を知らなかったこと。また、たとえ知っていたとしても、ほかの仕事にするチャンスがさいしょからお母さんはうばわれていたこと。つまり、「あの仕事につきたい」と思っても、さいしょからその仕事につくチャンスがお母さんにはなかったのです。自分がやりたいことを数あるせんたくしのなかから選んで、そして自分の人生を決めていくのではなく、もうそのせんたくしすら、はじめからお母さんにはなかったのです。スタート地点がほかの人とちがったのです。

そして第二に、リーアさんが12さいのときお母さんはすでに30さいをこえていたため、お母さんだけだったら「お客さん」が集まらなかったこと。お母さんだけでなく、リーアさんも働かないと、母娘二人がコルカタのような大都会で生きていくだけのお金をかせげなかったのです。これに気付いたとき、「なんと悲しい人生なんでしょう!」と思いました。明日を生きぬくために自分のカラダを売ってココロを殺し、そしてお金をかせいで食べ物を買う。その食べ物で明日まで生きのびる。でも、生きのびたとしてもすることといったら、今日とおんなじ。カラダを売ってココロを殺すだけ。

こういう仕事をして、たしかに「体」はいきのびるかもしれないけど、もう一つの大事なものである「心」はどうなってしまうのでしょうか。こんな人たちに、あなただったら「でも・・・生きてくためには働かないといけないんだし、しょうがないんじゃないのかなぁ?」なんて言えますか?

リーアさんにとって、はじめての外国人の友だちが私でした。リーアさんは、ABCを全部わすれてしまったので、今ではもう英語を書くことはできません。「だったら絵をかいて、それでぶんつうしよう!」ということになり、私は日本の住所を書いた小さな紙をわたしました。リーアさんのお母さんは、それをとても大事そうに手に持ち、かぎのついたロッカーの中にある小さなきんこの中にしまいました。

「さっきはあんなふうにあなたをせめてごめんなさい」別れぎわに、私はお母さんにあやまりました。「私はあなたの話を聞くまで、あいての立場に立って何かを考えるということを本当はぜんぜんしていませんでした」。

お母さんはえがおで私をだきしめてくれました。そして、「トゥミ・アマ・ボンドゥー(あなたは私たちの大切ななかまよ)」と言ってくれました。インドに来て、このとき初めて涙を流しました。

よく、国連などの資料を見ると、「世界全体で〇〇万人のひとが・・・・」とか「〇〇パーセントの人が・・・」という数字を目にします。でも、私はこのリーアさん母娘に出会って、「その〇〇万人の一人ひとりが本当にふつうの人なのに、ああやって大きな数を言われちゃうと、その大きな数を作り上げてる一人ひとりのすがたがかえって見えなくなっちゃうな」って思いました。たしかに、全体の数を見ると、どうしようもないくらいぜつぼうてきになってしまいます。

でも、インドに行ってよかったと思うのは、「自分の目の前にいるこの人を、自分の人生になにか変化をもとめているこのひとをなんとかできなくて、世界を変えることなんてできない」と感じられたことです。

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