【2018年7月18日 ウズベキスタン発】
ウズベキスタンのアズィマさんは、幼少期にうけた輸血でHIVに感染しました。感染が分かるまでは原因不明の病状に苦しみ、感染が分かった後はさらに、差別や偏見、社会的疎外といった困難に直面しました。ユニセフが支援する、HIVと共にいきる子どもたちのためのセンターに通い始めたことをきっかけに、「再び人生を歩み出した」と話すアズィマさん。これは、アズィマさんが自らの口で語ったストーリーです。
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© UNICEF/2018/Uzbekistan |
私は、お母さんが妊娠7カ月のとき、未熟児で生まれました。お医者さんから「お子さんは生き延びられないかもしれない」と告げられた母は、私を病院に残して、一人去ってしまいました。後に分かることなのですが、この病院で輸血治療をされた過程で、私はHIVに感染したのです。
私が生まれたことに気づいた祖母が、私を連れにきたのは、生後14日のときでした。それ以来、祖母が私を育ててくれました。
幼少期、私はいつも病気がちでした。背が小さく痩せていて、歯は次々に抜け落ちました。何度も何度も入院しましたが、私の症状の原因が分かる人は誰もいませんでした。病院から病院へと転院を繰り返し、障がい児専門の病院で白血病かもしれないと告げられ、がんの専門病院に紹介されました。その病院で、HIV感染検査が陽性という結果が出たので、タシュケント医療研究所に送られました。
祖母は、私のHIV感染結果に、軽度の心臓発作を起こすほどの強いショックを受けました。当時、わずか6歳だった私は、何が起きているのか、何も理解できませんでした。
病院では、さまざまな治療をうけました。HIV感染治療のための抗レトロウイルス療法を始めたのは、9歳の時でした。最初の頃は、治療も順調に進みましたが、良好な状態は長くは続きませんでした。追加された新しい薬のせいで、歩行にも困難が生じました。
私が入院していた病棟は、おとなの患者の人たちと一緒でした。おとなの患者の人たちからは、「きみは長く生きられない」や、「きみは死ぬだろう。もしきみが良い子だったら、この病気になることはなかっただろうに!」などと言われ、祖母と私は強い恐怖を感じました。私の病状について、医療スタッフは祖母には説明していましたが、私自身に説明してくれることはありませんでした。
おとなの患者の人たちと会話をした後は、ひどく落ち込みました。退院して通院治療を始めてからも、私は友だちから距離をおきました。誰とも話したくなかったのです。学校にも行かなくなりました。同世代のHIV感染者を誰も知らないので、私はHIVに感染しているたった一人の子どもだと、本気で思っていました。そして、他のおとなの患者に言われたこと、私はいずれ死ぬのだということを信じていました。
祖母にも、「本当に私は死ぬの?なぜ私はHIVに感染したの?」と、聞いていました。
一方、祖母はその頃、HIVに感染している子どもたちのためのセンターの情報を耳にしていました。「ユニセフが支援するそのセンターでは、アズィマさんのような子どもたちをサポートするグループがある」ということを聞き、一人でセンターを訪れた祖母は、帰宅後、「アズィマが疑問に思っていることは、全部センターで答えてくれるよ」、と私に言ってくれました。
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年が明けるころだったと思います。センターに着くと、工芸をしている女の子たちがいました。少し話してみましたが、彼女たちが私と同じHIV感染者だとは思いもしませんでした。だって、私の歳でHIVに感染しているのは、私だけだと思っていたのですから!センターの医療スタッフに、具体的に何を質問したかは忘れてしまいましたが、「もう怖がる必要はないよ」と言われたことは覚えています。その言葉を聞いて、心からほっとできました。
最初の頃は、3カ月に一度の訪問でした。もっと頻繁に来たかったのですが、私の自宅はセンターから100キロほど離れたところにあり、祖母も決して裕福ではありませんでした。けれどもセンターに来ることができたときは、他の女の子たちに、私の生活や生い立ちについて話しました。
「どこから来たの?治療は上手くいってる?どうやって感染したの?」
そこは、HIV感染について自由に話せる、唯一の場所でした。とてもフレンドリーで、いつも笑みをうかべている女の子たちに会うと、もっと頻繁にセンターに通いたくなりました。私は再び、人生を歩み出し始めました。とうとう、闇の中から光の射す方に抜け出せたように感じました。祖母と私は、もう孤独の中でHIVと闘うことはなくなりました。サポートをしてくれる人々に囲まれているのです。
私は「ピア・サポーター」になるための研修を受けました。研修の内容は、私にたくさんの自信を与えてくれました。医療スタッフは、なぜ薬を飲まなきゃいけないか、その理由を丁寧に説明してくれましたし、HIV感染を経験している人たちは、数々の課題をどう乗り越えるかを実体験に基づいて助言してくれました。最も困難なことは、病気のスティグマ(*汚名の烙印を押さたり、差別を受けたり、屈辱感や劣等感を感じること)にどう対処するか、ということです。他人から差別的な目で見られることだけでなく、「なぜ私の身にこのようなことが起こったのだろう、なぜ私だったのだろう」といった自分の中にあるすべての疑問にどう対処するかということです。
HIVと共に生きる子どもたちに対する人々の見方が、変わることを望んでいます。差別する気持ちを取り除くことができればと思っています。「HIV感染者です。ハグしてください」と書いた看板を、チャリティーフェアで掲げてその横に立ちました。何百人もの人たちが、立ち止まって、看板を読んで、私のことを見て、あたたかいハグをしてくれたことが、とても嬉しかったです。中には、奇怪な目で私のことを見て、立ち去る人たちもいました。どうしてよいか分からなかったのだと思います。私はそのことを悲しく思います。彼らが心の中で抱いている恐れは、無知の暗闇から生まれたものです。
去年、私はユニセフのサポートを受けて、HIVと共に生きることについてテレビやラジオで語りました。私は自らのHIV感染について隠したくないし、祖母も背中を押してくれました。祖母が私を信じてくれていることを、分かっています。番組が放送された後、本当にたくさんの応援メッセージをもらいました!想像もしていなかったことです。センターに通う他の子どもたちも、その番組に参加しました。
HIVデイケアセンターのドアを開け、中に入って最初に目にするのは、明るい光とたくさんのおもちゃです。ここにはあらゆる年代の子どもたちがいます。私は工芸が得意なので、つくったブレスレットを売る取り組みも始めました。おとなになったら、職人になりたいです。
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センターに通い始めて7年になります。HIVと共に生きる子どもたちをサポートするために、私のように研修をを受けた「ピア・サポーター」が、他の青年の研修をサポートします。今年アムステルダムで行われた、エイズに関する大きな会議には、センターから2人の青年が参加しました。中央アジアで行っている私たちのプロジェクトが、発表のひとつに選ばれたからです。
センターがあるおかげで、私はエネルギーに満ちあふれています。私は今、HIV感染者であることも、抗レトロウイルス治療も、私の人生の一部だと受け入れています。ここHIVデイケアセンターでの子どもたちの様子を、より多くの人々に知ってもらえたら、HIVと共に生きる子どもたちのことを、より深く理解してくれるようになると思います。
(おわり)
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国連の持続可能な開発目標(SDGs)では、2030年までに「エイズ・結核・マラリアなどの流行をなくす」というターゲットが掲げられています。
世界中で、HIV/エイズの治療ケアや感染予防に関する研究・取り組みが進むなか、エイズ関連死の年間死亡数は2005年の190万人をピークに、2017年時点で94万人にまで減少するなど、確実な成果が見られています。
ユニセフが目指すのは、「エイズのない世代」の実現。「エイズのない世代」とは、HIVに感染せずに誕生し、感染しないまま20歳を迎える世代のことです。ユニセフはパートナーとともに、すべての子どもたちをHIV/エイズの脅威から守るために、世界各地で取り組んでいます。
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