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財団法人日本ユニセフ協会

世界の子どもたち

<2002年11月20日掲載>

イチヂクの木の下で応急手当て
<コートジボワール>

 「1週間前までは、毎日1,000人を受け入れていたんですよ」と語るのはカリタスのフレドリック・ヤオです。ヤムスクロにある国内避難民向けの一時滞在センターでのことです。「今は毎日350人くらいですが、平和協議がどうなるかで、また増える可能性もあります」しきりに汗を拭いますが、1983年以来、コートジボワールの正式な首都となっているヤムスクロの湿気は執拗です。

 ヤムスクロはコートジボワールの内陸部にある都市で、海沿いにある経済的な首都アビジャンの約250キロ北に位置しています。アビジャンからヤムスクロまで来るのに、6つの「検問」所を通りました。3つは公式なもので、政府の軍が監視する検問所で、兵士が立っていました。ほかの3つは「民間の自衛団」による検問所です。サングラスをかけた、ジーンズとTシャツ姿の若者が、横柄な態度で、ライフルや槍、棍棒、小刀、弓矢まで振り回して検問をしています。

 「二つの首都」を持ちながら(アビジャンはフランス植民地時代の首都で、現在は「経済的な首都」と言われている)、コートジボワールの平和協議は、ヤムスクロでもアビジャンでも行われていません。近隣国、トーゴのロメで行われているのです。その上、今週は平和協議がうまく進展していません。コートジボワール愛国運動が話し合いを延期するよう脅迫していましたが、11月9日までに、その脅迫が実行されてしまったのです。アビジャンで、反政府軍リーダーの弟が殺されたのを始め、反政府軍は平和協議を延期し、ブアケから政府軍の前線に続く南側の道をブロックしたのです。ブアケはコートジボワールの第2の都市。反政府軍の根城で、ヤムスクロから100キロ北にあります。

 反政府軍は、2002年9月19日にクーデターを企てましたが、失敗に終わりました。それでも、その事件以降、この国の北半分を実行支配したのです。その間、反乱軍と政府軍との闘いで、推定20万人(その多くが女性や子ども)が故郷や村を捨てて逃げざるを得なくなりました。

 「ここに来る国内避難民の人たちは、ブアケから来ています」とフレデリックは言います。「ほとんどが裸足でたどり着きます。持てるだけの家財道具を頭と手に持って逃げてきているのです。ここに来るまでに、太陽の中を2〜3日歩いています。ですから、人々は疲れ果て、喉が乾いて、ほうぼう中にケガをしています。特に子どもがかわいそうです」

 例えば、9歳になるビクトワールのような子どもです。ビクトワールは、数日前、家族共々、不穏な状況にあったブアケから逃げ出してきました。ビクトワールと家族が、ヤムスクロの町についたのは2 日後でした。一時滞在センターに着くまでに、ビクトワールの脚やすねは傷だらけになってしまいました。傷そのものは大したことありませんが、このまま放っておくと細菌に感染し、大変なことになりかねません。

 「転んだの」ビクトワールは脚や足先を指しながら言います。「痛いわ」ビクトワールは一時滞在センターの庭に生えているイチヂクの木陰に座っています。通常、この木は昼間の暑い太陽から身を守るための木陰を提供してくれ、午後は、この時季に毎日降る土砂降りの雨から人々を守ってくれる傘となってくれています。しかし、コートジボワールの7週間にわたる危機の後、ここに一時滞在センターが作られてからはこの木陰の下が救急医療センターになっています。

 白衣を着込み、手にゴム手袋をしたアルベール・クアメは、年配の紳士です。声は柔らかく、人なつっこく微笑みます。看護士として研修を受けている彼は、センターがオープンして以来、ずっとこの救急医療センターにつめています。「私は軽傷の患者しか診ないので、たいがいはビクトワールのような擦り傷や切り口を診ることになります。でも、これはとても大事な仕事です。というのも、傷口の消毒をして、ほうたいを巻いておかないと、ビクトワールのような子どもは細菌に感染して、重病になってしまうことがあるからです」

 「はい、ちょっと我慢してね」アルベールは優しく言います。小雨が降っていますが、イチヂクの木の葉は密度が高く、アルベールの臨時「外科手術室」に雨は一滴も落ちてきません。「手術室」には、イチヂクの葉の天井、プラスチックの椅子3脚、小さな木の机、そして緊急キットがあります。キットには、包帯、消毒薬、はさみ、テープ、綿、ガーゼ、石鹸、綿棒などが入っています。アルベールが綿棒を使って消毒剤を傷口につけると、ビクトワールは痛そうに顔をしかめます。「あと2回だけね…もうすぐだよ」

 数分後、傷口をきれいにし、消毒を受け、包帯まで巻いてもらったビクトワールの顔には再び笑顔が戻りました。「先生、ありがとう」彼女はアルベールに言います。頭をなでてあげると、彼女は兄弟姉妹のもとに走っていきました。「今日は、19人の患者さんが来ましたよ」アルベールは彼女の名前、年齢、処置を記録簿に書き入れます。「毎日20人くらい来ますね」

 ユニセフ・コートジボワールが今回の危機管理に際して行った最初の活動のひとつは、基礎保健キットと補助保健キットをヤムスクロの一時滞在センターに送ることでした。 基礎保健キット1つで、10,000人を3カ月間カバーすることができ、アルベールのような人が、緊急の感染症予防治療を行うことを可能にしています。アルベールが使っているような医療器材以外に、保健キットには、基礎医薬品、ORS(経口補水塩)、聴診器、注射器、針、ピンセット、ステンレスのボウルと洗面器、カテーテル、湿布、栄養管、体重計、等が入っています。これらの機材があれば、一時滞在センターの医者、看護師、助産婦たちが、緊急事態の患者にも対応できます。

 でも、危機が発生して以来、心の痛手や破綻した生活の傷を埋めてくれるものは、保健キットには入っていないようです。21歳のソニア・コナテは膝の上に10カ月になる「娘」、ミレイユを抱いています。ご飯を少しずつ手にとって彼女にあげると、ミレイユはくくっと満足げに笑います。ソニアはカメラに向かって作り笑いはしますが、目は疲れを物語り、話をするうちに、その笑顔もすぐに消えてしまいました。

「双子の姉と私はブアケで、叔父と一緒に住んでいました」とソニア。「姉は妊娠したのですが、それが分かったとたんに男は家を出ていきました。10カ月前にミレイユが産まれました。でも、産後のひだちが悪く、お腹の状態が良くなかったんです。ちょうど、反乱軍が病院に入ってきたとき、姉は手術中でした。手術は失敗し、クーデター事件が起きた翌日、死にました。叔父はブアケの役所に勤めていたのですが、翌日、銃で撃たれて死にました。私はミレイユを抱えて逃げ出しました。それ以来ここにいるんです。ミレイユと私にとって、どこが安全なのかよく分かりません」相変わらず小さな笑い声を出しながら、無邪気にはしゃぐミレイユを、ソニアは疲れた顔で見ています。国で起きている危機と彼女自身に降りかかってきた新しい責務に、彼女は無関心のようにも見えます。

 ユニセフ・コートジボワールの評価チームは、ヤムスクロに滞在しながら、ここ3日、数千人にのぼるミレイユやソニアのような子どもや女性に支援を送るためには、どのようなプログラムを展開するのがよいか、調査を行っていました。評価チームは、保健、栄養、子どもの保護、水と衛生、そして教育の面で、より効率的な援助ができるよう、現在、戦略を練っているところです。
 9月19日のクーデター失敗以来、ユニセフは人道的支援が行き届かない場所にアクセスするよう努力していますが、昨日の平和協議が延期され、ブアケ以南の道が通行不可能になったことで、状況はさらに難しくなりました。ユニセフは、ビクトワール、ソニア、ミレイユのような子どもや女性たちが、たった今、何千人もの単位で、ユニセフの支援を待ち受けていると考え、さらに努力を重ねています。

ヤムスクロ 11月10日発(ユニセフ)
執筆者:ケント・ページ

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