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財団法人日本ユニセフ協会

世界の子どもたち

ブルンジ:祖国の公用語が話せない帰還民の子どもたちに言語学習の支援を

【2008年9月18日 ブルンジ発】

勉強の成果を見せる発表会が開かれ、公用語であるキルンジ語でクラスメートと一緒に歌を歌う女の子。
© UNICEF video
ユニセフは、ブルンジに帰還した難民の子どもたちのために言語学習を支援している。そのコースの中で、勉強の成果を見せる発表会が開かれ、公用語であるキルンジ語でクラスメートと一緒に歌を歌う女の子。

ブルンジは、タンザニア、コンゴ民主共和国、ルワンダに囲まれた小さな国です。何年もの間、民族衝突によって、国が分断されてきました。2006年に平和協定が結ばれ、現在、武力衝突で他国へと避難していた人々が祖国に戻ってきていますが、新たな困難に直面しています。

ブルンジのように武力紛争を経験した国の子どもたちが、元の生活を取り戻すには、教育を通した特別な支援が必要です。大量に帰還してくる人々にどう対処すべきか? これは難しい問題ですが、教育は、武力紛争の影響を受けたコミュニティに安定をもたらし、復興を後押しする手段となり得ます。

1972年と1993年に起きた大虐殺の影響で、約40万人のブルンジの人々が、周辺諸国へ避難し難民となりました。2006年に、平和条約が結ばれてからというもの、ブルンジは、安定したかと思うと、また小さな衝突が起き、社会的に安定しない状況が続いています。

完全に安全が確保されたとはいえない中で、ブルンジの隣国のひとつ、タンザニアでは、2008年末までに、全ての難民キャンプが閉鎖されることになりました。すでに7万5,000人のブルンジ人が、帰還を果たしていますが、一方で、何百人もの人々が、何の支援もない中、外国に留まるか、あるいはほとんど知らない「祖国」に戻るかの選択を迫られています。

コミュニティの中に溶け込む難しさ

ロイス・マニラボナさんは、1972年に家族と一緒にブルンジを離れました。そのときロイスさんはわずか3歳。現在、「祖国」と呼べる唯一の場所に帰還し、落ち着くことになりました。

「もう絶対にブルンジを離れません。難民になるほどみじめな状態はありませんから」と、マニラボナさんは話します。現在、ブルンジの首都のブジュンブラから1時間のところにあるルモンゲ村の近くに設置されたキャンプに家族と一緒に住んでいます。マニラボナさんは、新しいコミュニティで生活していくことは、簡単ではないことを知っています。今、彼の最大の心配は、就学年齢にある3人の子どもたち——メレちゃん、アマニちゃん、アスネットちゃん——のことです。

帰還民の子どもたちは、まず言葉の壁に直面します。子どもたちのほとんどが、ブルンジの学校で主に使用される2つの言葉——フランス語とキルンジ語——の知識がほとんどないか、あるいは全くないのです。

言語を習得し始めた子どもたち

ルモンゲ村の帰還民向けの学校で教鞭をとるクローディン・ヤベンダさん。
© UNICEF video
ルモンゲ村の帰還民向けの学校で教鞭をとるクローディン・ヤベンダさん。ブルンジ教育省により20人送り込まれた先生のひとりだ。

子どもたちが、フランス語とキルンジ語の基礎を習得して、新学期を迎えられるように、ユニセフは、パートナー機関と協力して、7週間の言語学習コースを支援しています。400人以上の子どもたちが、ルモンゲの学校で、このコースに参加しています。しかし、この学校は、帰還民たちが再定住したキャンプ地から、遠いところにあるため、子どもたちは学校で寄宿生活を送っています。

ラファエル・ニャンド校長先生は、学校の目標は、「来年には、他の生徒と張り合えるよう、またブルンジの学校制度に適応するように、子どもたちの学力を伸ばすこと」だと言います。

マニラボナさんの子どもたちも、このコースを受講していますが、すでに大きな前進が見られるといいます。マニラボナさんは、このコースのおかげで、子どもたちが、すぐに正規の学校の授業についていくことが出来るようになるだろうと信じています。

※ブルンジでは公用語としてフランス語とキルンジ語が一般的に使われています。

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