<2003年6月18日掲載>
子ども兵士物語
〜元「戦争のボス」に聞く〜
<リベリア>
「リベリアの戦争は、間近で見た…」背が高く、きちんとした身なりの若者は、静かに語ってくれました。「たくさんの破壊行為と殺戮(さつりく)。今考えるととても悪いことだったと思う。自分がしてきたことがね…」
3週間前の5月20日、仕事でリベリアの現場に出かける機会があり、「ジェームズ(仮名)」に会いました。彼は頭が良く、礼儀正しい若者。夢いっぱいの未来がありますが、過去の経験は決して明るいものではありませんでした。彼の経験は、私たちには理解できない一面を教えてくれます。そう、リベリアでいったい何が起きているのか、その舞台裏を教えてくれるのです。ジェームズが語る物語は、絶望と搾取、そして恐怖に満ちたものでしたが、今現在、子ども兵士として戦いに参加しているモンロビア付近の子どもたちにとっては、希望の物語でもあるのです。
「あれは1991年のことだった」ジェームズは振り返って語ります。「ローファ地区にある僕たちの村に反政府軍が入ってきたんだ。お父さんを殴って、刑務所に入れた。兵士たちは、僕に、『軍に入らないか?』と聞いたんだ。強制はされなかった。聞かれただけだった。でも、僕はお父さんを助けられると思ったから、参加することにしたんだ。でないと、絶対に殺されると思ったから。あのときは6歳だったな」
「ほかの子どもたち…みんな僕より年上だったと思うけれど…彼らと一緒に別の場所に連れて行かれたんだ。未開の奥地での軍事トレーニングにね。子どもは175人いて、トレーニングは3カ月続いた。まるで刑務所に入っているようだった。『規律とか礼儀』を教えられて、敬礼の仕方、命令の出し方、受け方、そんなことを教わった。『鉄条網』訓練も受けた。鉄条網の下を銃を持ちながら這いずりまわるんだけれど、その頭上を弾丸が飛んで来るという具合さ。兵器についても学んだよ。AK-47を分解して、掃除する方法、それも暗闇の中で掃除する方法なども教わった。偵察の仕方も教わった。偵察隊のリーダーになる方法、手信号だけで偵察隊を率いる方法などもね。最初は怖かったけれど、いつも疲労困憊の状態だから、そのうちどうでも良くなってしまった」
「そうこうしている内に前線に連れて行かれたんだ。5年間、前線で戦ったよ。そうやって副隊長まで登りつめた。あだなは『戦争のボス』だった。最初は反政府軍の荷物運びの役だったけれど、そのうち、戦うための武器を渡された。AK-47、ベレッタ、G-3、短機関銃のウージーなどを使ったことがある。ロケット推進型の擲弾発射機<グレネード・ランチャー>の使い方も教わったけれど、実際に発射したことはなかったよ」
「僕たちの隊では、年齢は関係なかったね…。いい反政府軍兵士ならば、昇進できる。そうすると、部下のほうが年上だろうが、背が大きかろうが、関係なかった。命令を出せば言うこを聞いたな。時々は、『捕獲と破壊』ミッションに出され、誰も生きたまま返さない、何も残さない…そんなことをした。ほかにも『バッタ作戦』を行ったけれど、これは、同時に一箇所を一斉攻撃するというものだった」
「いつも麻薬をたくさん与えられていた。それは自分たちが強いと思い込ませるため、何があろうと命令を最後まで遂行させるためだったんだ。僕自身は、アヘンや精神安定剤を常用していた。薬のせいで、傷みは全然感じなかった。まるでほかの人がこの悪行をしているのではないかと思うくらいだったから。与えられた薬のせいで、覚えていないこともたくさんあると思う。悪魔にコントロールされているようなものだったから。でも、今では、それを行っていたのが自分だと分かっているし、自分が行ったことに対してはすごい罪の意識を持っている。戦争ほどひどいことはないと思うよ」
「副隊長に任命されたとき、僕は命令を隊長から受けて、それを同じ隊のほかの9名に命令する役だった。みんな僕より年上だったけれど、決して反抗しなかったし、それで争いになることはなかった。僕たちは『SBU攻撃部隊大作戦』の少年戦闘隊の一部隊だったんだ」
「1996年の12月、僕が11歳のときだった。リベリアに平和が来るという噂が立った。僕はうれしかったね。未開の奥地で戦って5年、やっと兵士を辞めることができた。国連が部隊解除したときに、最初にロファ地域で解除されたのが僕たち子ども兵士の部隊だったんだ。もう戦わなくてすむ、殺さなくてすむと思うと、とてもほっとした。そういういきさつでモンロビアに来て、それ以来ここにいるんだ」
ジェームズは今18歳。前線を離れてからは、リベリアのNGO「クルセーダーズ・フォー・ピース(平和のための十字軍)」の助けを借りて、学校に通っています。ユニセフは、子どもの兵士を社会に復帰させるため、多様な活動を行っていますが、このNGOにもユニセフが支援を行っています。ジェームズは現在8年生。いつかは医者になりたいという夢を持っています。一生懸命勉強していますが、もちろん、ほかの子どもたちの手助けも忘れていません。
「毎週土曜日の朝、太鼓の叩き方や歌、踊りを子どもたちに教えているんだ。太鼓は、音が好きなんだけれど、何よりも子どもたちが幸せそうに、新しいことを学んでいる姿を見るのが好きだね。また前線で戦わないか、と誘われたこともある。でも、拒否したよ。今は教育のほうが大切なんだ。まだまだたくさん学ぶことがあるしね。教育が受けられれば、僕の将来ももっといいものになる。過去よりもずっといいものにね…」
5月20日、このインタビューが行われた日、モンロビアの通りは、仕事や学校に行く人や車でごったがえし、市場も賑わっていました。しかし、ここ数日はモンロビアの通りにはだれひとりいない状態です。というのも反政府軍が街に攻め入りつつあるからです。6月9日、モンロビアのようすは次のようなものだという情報がIRIN(アフリカ地域情報ネットワーク)から入りました。
「リベリアのチャールズ・テイラー大統領が自らの命を守るために戦っている一方で、裏では、子どもの兵士たち−その多くが戦争孤児です−が、戦いの前線に、再び送り込まれています。首都モンロビアの通りを走る小型トラックには、自動小銃を誇らしげに持ち、乗り込んでいる子どもたちの姿が見受けられます」
子ども兵士の中には9歳の子どももいます。全員が強制されて軍に入ったわけではありません。反政府軍によって殺された両親の仇を討とうと自らの意志で入隊した子もいます。10歳未満にしか見えないボアカイもそのひとりです。AK−47自動小銃を腕に抱きながら、タバコを吸う彼は、無秩序になったモンロビア市内を警備する軍隊の一員なのです。現在、モンロビアは水も電気も不足し、公務員は何カ月も給料を払われていません。
反政府軍も子どもの兵士を使っています。モンロビアの北東140キロの町バルンガへのLURD(リベリア和解民主連合)の攻撃の際も、子どもたちがプロペラ推進型の擲弾発射機や自動小銃を使っているところを目撃されています。多くの子ども兵士たちは、大きくなる前に、自分たちも戦いで死んでしまうだろう、とあきらめているのです。
リベリアの子どもたちが紛争の中で継続的な搾取と虐待にあっていることは、非常に憂慮される事態です。だからといって、希望を捨ててはなりません。その暗い歴史の中でも、ジェームズのような希望の光はあるのですから。それを忘れてはならないのです。先月のインタビューの最後に、ジェームズは突然、時計を見て言いました。「質問はこれでおしまいですか?」彼は丁寧に聞きました。「これ以上なければ、僕は学校に行かないといけないので。遅れたくないしね」
ユニセフと子どもの兵士の問題
子どもの兵士とは18歳未満の男女が武力兵士の軍隊やグループに所属している状態を言います。戦闘員の場合もありますし、料理係、メッセンジャーの場合もあります。家族のメンバー以外のグループについて行動している場合もそうです。性的搾取や強制的な結婚を目的にリクルートされる女の子や男の子もいます。つまり、武器を持っている子どもだけを子ども兵士と呼ぶわけではありません。
80年代の半ば以来、ユニセフは子どもの兵士の解放に関わってきました。武力グループから子どもの兵士たちを引き離す主要な役割を担ってきたのです。それは武力紛争の真っただ中のときもありました。リベリア、シエラレオネ、アンゴラなどで活動が行われてきました。また、2002年には、「武力紛争への子どもの関与に関する子どもの権利条約の選択議定書」も発効されるにいたりました。
ドイツ技術協力公社(GTZ)の協力のもと、ユニセフ・リベリア事務所が支援するプログラムを通して、リベリアの子どもの兵士4,300人が部隊解除され、コミュニティに復帰しています。9カ月に及ぶこのプログラムでは、子どもたちへの心理社会的カウンセリングや職業訓練が行われました。識字教育、衛生教育、HIV/エイズの意識向上教育、レクリエーション活動なども含まれていました。ユニセフのリベリア事務所では、GTZと新たな契約を結び、同様のプログラムを子どもの兵士のために開始する予定でいます。ユニセフ・リベリア事務所は、オブザーバトリー・グループと共に、子どもを武力紛争に巻き込むような子どもの権利の侵害に反対するアドボカシー活動を行っています。
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<この記事は、仮名を使い、リベリアとシエラレオネ以外の国で使うことを前提に、本人の了解を得て出しているものです。>
ユニセフ地域広報官 ケント・ページ
インタビュー:2003年5月20日 リベリア・モンロビアにて
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