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南スーダン危機:
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©UNICEF South Sudan/2014 |
ユニセフ・子どもの保護担当官の山科真澄さん |
世界で最も新しい国である南スーダンで、昨年12月に発生した武力衝突は激化の一途をたどり、ようやく今年1月23日に停戦合意が締結。しかし、新たな戦闘の勃発が確認されています。ユニセフ南スーダン事務所・子どもの保護担当官の山科真澄さんは2月末、上ナイル州のマラカルで、支配権をめぐる激しい戦闘に巻き込まれ、命の危険と隣り合わせの緊迫した状況下で支援を続けました。戦闘勃発から1週間後、ようやく航空機の離着陸許可が下り、ジュバに戻ることができました。山科担当官やユニセフのスタッフが滞在していた国連施設内の保護施設には、昨年12月の危機発生以来、2万人を超える住民も身を寄せていました。
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私が、ユニセフで子どもの保護専門官の仕事に就いたときには、まさか子どもの遺体を埋葬する日が来るとは、思ってもいませんでした。悲しいことに先週、マラカルで発生した激しい戦闘は、避難民が身を寄せる国連施設の敷地内まで侵入し、私は、巻き込まれて死亡した人々の埋葬を手伝いました。
2月14日金曜日、首都のジュバからマラカルに到着しました。私たちユニセフや他の人道支援団体は、マラカルの国連施設内や近くの避難施設に身を寄せる市民や子どもたちへの支援活動に自信を持っていました。
私はソーシャルワーカーと協力して、昨年12月にこの国で起こった危機で家族と離れ離れになっている子どもたちの特定や家族の追跡、子どもたちの里親を探す手助けをする任務にあたりました。ユニセフは、子どもたちが安心して遊ぶことができるように「子どもにやさしい空間」を設置する準備も進めていました。上手くいくと実感していましたし、綿密な支援計画も立てていました。
そう感じていたのが17日の月曜日のことです。しかし、火曜日の朝には状況が一変してしまいました。
©UNICEF/NYHQ2014-0221/Mackenzie Knowles-Coursin |
緊迫した状況が続くマラカル |
寝泊まりしていたテントで目が覚めて間もなく、静かな朝に銃声がとどろきました。マラカル駐在の政府軍に対する攻撃が行われるという、何日も前から流れていた噂が現実となったのです。
流れ弾から身を守るため、私たちは貯蔵庫に走りました。しかし、そこはすぐに国連施設に避難していた家族で溢れかえりました。私たちは外に出て身を寄せ合いながら、この状況が早く終わるよう祈りました。激しい銃撃は何時間も続いていました。もし近くで爆撃があったら、私たちはおそらく、命を落としていたことでしょう。
こうした緊迫状態は、避難民キャンプ内でも起きています。避難民同士でも、異なる民族間での争いが勃発しました。なかには、コンクリートブロックや金属棒を手にする人までいました。とても恐ろしい光景でした。
日が暮れても、安全な場所はどこにもありませんでした。私たちのテントは、爆撃や銃弾に耐えることはできないものでした。できる限りの睡眠をとり、水曜日の朝に目覚めると、国連施設外では新たな銃撃戦が、国連施設内では避難している人々の間で争いが起こっていました。
攻撃開始から2日間で、国連施設内には自然原因で命を落とした乳幼児2人を含む、17人の遺体がありました。私たちは遺体をそのままにしておくことができず、次の朝、国連施設のスタッフと共に外に埋葬しました。その際にも銃を担ぐ子どもたちを目にしました。なかには10歳ほどのまだ幼い子どももいました。彼らのような子ども兵士はこの残忍な殺りくを目撃し、なかには自ら命を絶った子どもたちもいます。
20日の木曜日、国連施設とマラカルの町をパトロールした平和維持軍は、子どもたちを含む無数の遺体を発見したとの報告をしました。女性が水を汲むナイル川にも遺体があったそうです。そして、性的暴行をうけた女性もいました。
マラカルの戦闘は止むことを知らず、時間が経つにつれ食糧と水が底をつき始めました。人道支援に携わる人々や国連施設に避難している女性たちの中には、家族のために命の危険を冒してナイル川に水を汲みに行っている人もいました。
21日金曜日になると銃撃が弱まり、私たちは支援活動を再開することができました。子どもたちに水や経口補水液を提供しました。ユニセフは子どもたちの安全を守るため、離れ離れになった子どもたちの特定を行い、性的暴行の被害にあった人々に支援サービスを開始し、パートナー団体と協力して医療ケアを提供しました。緊張状態下での素晴らしいチームの団結力によって、このような悲惨な出来事を乗り越えることができました。ユニセフの支援や保護を必要としている子どもたちやマラカルの人々のために、私たちは支援を続けなくてはいけないという、強い思いがありました。
23日の日曜日、ついにマラカルへの航空機の離着陸許可が下り、私はジュバに戻りました。マラカルに留まり支援活動を続けたいという想いもありましたが、精神的にも疲れ果てているということを自分でも理解していました。ジュバの飛行場で出迎えてくれた友達やユニセフのスタッフに会ったときには、涙をこらえることができませんでした。
私はこれまで、2009年のアフガニスタンやスリランカの紛争、ジンバブエと中国の震災後に現地で支援活動を行いました。しかしマラカルでの出来事は、今まで経験した人道危機のなかで最も痛ましいものでした。それは、想像を絶するほどひどい状態でした。しかしもちろん、被害を受けている女性や子どもたちが最も苦しんでいるということは、言うまでもありません。
この戦闘で、マラカルの子どもたちと女性の安全を守るための支援は、何週間も、何カ月も後退してしまいました。そして今後さらなる争いが起こり、子どもたちのための支援活動の行く手がふさがれてしまうのではないかと懸念を抱いています。
マラカルの人々の支援に対するニーズは今も高まっています。離散した家族の再会、両親と離れ離れになってしまった子どもの安全の確保、避難している住民への安全な飲み水や保健ケアへのアクセスの確保が必要不可欠です。後2カ月ほどで始まる雨季によって起こりうる洪水にも備えなくてはいけません。そして、この国で起こっている深刻な子どもの人権侵害に対する支援も必要です。そういった支援が、希望の光となってこの国の将来を照らしていくのだと信じます。この紛争はあまりにも悲しく、人々の命を危険にさらし、心の傷をも負わせるものです。私はユニセフのスタッフと共に再びマラカルに戻り、マラカルや南スーダンの子どもたちのために最後まで支援を続けることを決意しました。
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