【2016年9月6日 アテネ(ギリシャ)発】
サラ・アルサブサビさんの家族は父親の健康状態が悪化した2013年に、アレッポからトルコに逃れてきました。父親はそのままドイツに渡り、そこで腎臓がんが発見されました。今、サラさんと彼女の家族は父親と一緒に暮らすことを切望していますが、ようやくエーゲ海を渡りギリシャに着いたものの、身動きが取れず、難民キャンプでの暮らしを余儀なくされています。ユニセフのサラ・クロウ広報官が報告します。
© UNICEF/UN030621/Gripiotis |
ドイツのヘッセンにいるカーセム・アルサブサビさんから、待ちわびた家族に知らせがようやく届きました。父親であるカーセムさんは、ドイツに到着し、手術を終え、放射線治療を受けており、住居も見つけたことを知らせるものでした。愛する家族と暮らす準備を整えたカーセムさんは、家族の到着を待ち望んでいます。
2016年2月、12歳のサラさんは母親と7人の兄弟姉妹とともに、ワクワクしながらトルコのイズミールを出発しました。家族は、2013年にシリアのアレッポから逃れ、シリア国境に近いトルコ・アンタキア市のアルティノズで3年間近くを過ごしていました。
父親のカーセムさんは、アレッポで航空機整備の仕事に就いていましたが、トルコでは働くことが出来ず、健康状態が悪化していきました。腎臓がんを患っていることがわかったのは、昨年夏にドイツに渡ってからでした。家族はこの知らせを受けて、一緒に暮らしたい気持ちがさらに高まり、渡航を決心し、友人や親族からお金を借り始めました。
家を離れるにあたって、子どもたちは僅かな荷物しか持っていけません。サラさんも、小さいバックパックひとつしか持っていけませんでした。その中には、トルコの難民キャンプの学校のクラスで一番になったとき、賞としてもらったタブレットを入れました。そして、おしゃれが気になり始めた年ごろの女の子らしく、白いフェイクパールのネックレス、スパンコールをあしらったハンドバッグ、流行りのTシャツ、そして明るい色のリボンもたくさん詰め込みました。道中、これらの荷物が彼女の重荷になることはありませんでした。彼女にとって、とても大事なものなのです。
ドイツはとても遠く、言葉も文化も違う異国に思えました。でも、包囲されたアレッポ市から逃れてきたこの家族にとっては、家族全員で新しい人生を始められる楽園でもあります。彼女の父親はドイツ語で「Wie geht es, danke schön(お元気ですか、ありがとう)」と話せるようになりました。サラさんもドイツ語を学ぶのを楽しみにしており、語学が大好きな妹のシャムさんは、早くも喋り始めています。
サラさんたち家族が、世界で最も危険な海上のルートのひとつを無事に渡れたのは、1度目でも、2度目でもなく、3度目に試みた時でした。
© UNICEF/UN030629/Gripiotis |
1度目は、乗船直前に密航仲介人が2倍の料金を請求してきました。それは、2016年の初春のことで、2015年夏にはヨーロッパに広がっていた難民に対する親切で温かい対応が、2016年には明らかに冷たくなり始めたことを、密航仲介人たちは知っていたのです。この値上がりした料金は、すでにサウジアラビアに住む親戚から600ドルを借りていたこの家族には、支払えるものではありませんでした。
2度目の試みでは、サラさんと家族が乗っていたゴムボートが、沖に出てわずか10分後に沈み始めたのです。恐怖の瞬間でした。この家族が渡航を試みる前の6週間だけで、300人以上が同じエーゲ海ルートの航海で命を落としていました。仲介人に買わされた薄っぺらなライフベストは全く役に立ちませんでした。父親は危険に備え、サラさんの兄のモハンマドと弟のセラジアルディーンに、泳ぎ方を教えていたので、兄弟は家族を浜まで連れ戻すことが出来ました。とてもショックをうける出来事でしたが、家族はあきらめませんでした。
3度目の挑戦で、家族は幸運にも無事に海を渡ることができました。しかし、ギリシャのレスボス島に到着した時点で、その運はつきました。バルカン諸国やヨーロッパの一部では、国境の囲いが高くなる一方、人々の寛容度は失われていきました。サラさんの母親は背中を悪くしたため車椅子での生活を余儀なくされ、ギリシャ北部イドメニにある泥だらけの難民キャンプで足止めされることは、考えるだけで気落ちするものでした。
「ボートに乗ったときはとても怖くて、お父さんのことや、お父さんと一緒にいたいということだけ考えていました」と、サラさんはその時の気持ちを語りました。「ここに到着するまでに起きた最悪の出来事は、ボートが沈んだときに、バックパックに入れていたタブレットが濡れてしまったこと。私がクラスで一番になったときに、このタブレットを先生からもらって、とても嬉しかったの。だって、賞を取るのはいつも兄だったから」
「いつもこのタブレットを持ち歩いていました。もう、動かなくなっちゃったけど、今でも捨てずに持ってるの」と言って、タブレットを見せてくれました。
© UNICEF/UN030623/Gripiotis |
家族は、レスボス島の屋外のテントで何週間か滞在し、そこからさらに数週間、ギリシャ本土のピレウスの港にあるテントで暮らしました。ピレウス港は、美しいギリシャの島々に向かう豪華客船が出航する港です。
アテネから近いスカラマンガス難民キャンプのコンテナ式仮設住居には、エアコンやバスルームも整備され、3,000人の難民が暮らしています。家族にとって、ここに住めるようになったことは前進です。しかし、そこから前に進むことができません。父親のカーセムさんに会うために進むべき道には辿り着けないのです。
強い決意、そして直面する困難から立ち直る力をもったこの家族にとっても、待ち続けることはあまりにも苦痛です。ギリシャには、難民キャンプなどで暮らし、今後の人生が決められるのを待っている子どもたちが2万7,500人以上います。サラさんもそのひとりです。
「ここにいることにうんざりしています。ただ足止めされているだけなのです。アレッポでの生活・・友達や、暮らしていた場所、おばあちゃん、おじさんたち、すべてが懐かしいです。アレッポとトルコで通った学校が大好きでした。どちらも私立の学校で、私がそこに通えるようにお父さんがたくさんのお金を払ってくれていたから、勉強を一生懸命頑張ったの」とサラさんは言いました。「爆弾や銃撃があるときには授業は休みになったけど、友達みんなと一緒に学校で過ごしたわ」
「今、私のたった一つの望みは、ドイツに行って、お父さんと一緒に暮らして、ドイツの学校でドイツ語を習うこと」難民旅行証明書を取得した父親のカーセムさんが、ギリシャにいる家族を訪問したことで、サラさんたち家族の期待はさらに高まりました。ドイツとギリシャ当局に対して、家族が再び一緒に暮らせるよう求めています。
カーセムさんは、「私たちは大変難しい状況にあります。子どもたちと妻がドイツに来られるように、できる限りのことをします。私は健康に不安を抱えています。私には家族しかないのです。すべてを失ったのですから」と話します。
© UNICEF/UN030619/Gripiotis |
待機状態に置かれたサラさんと兄弟姉妹にとって、最も嬉しい出来事は、ホープ・スクール(Hope School)が出来たことです。コミュニケーション・エンジニアのバセル・シュライエフさん(28歳)が率いる難民の企業家たちが設立しました。バセルさんは、3月に包囲が激化したアレッポから避難してきたばかりです。
バセルさんたちは、サラさんの姉のイスラさん(19歳、薬理学専攻)やモエナさん(18歳)を含め、学歴のある難民を集めて、この新しい学校の教師なってもらいました。弟や妹たちを教えることになったサラさんは、最初は変な感じだったと言います。教材はシリアやイラクの教育関連ウェブサイトからダウンロードし、仮設の教室も設置して、難民たち自身が難民の子どもたちを教えることで、悲惨な現状の中でもできる限りのことをしようとしています。
国内のNGOやユニセフの支援を受けて、スカラマンガス難民キャンプで暮らす約650人の子どもたちは、小さなコンテナ式の仮設教室で、朝9時から夕方6時までの中で、1日40分間の授業を受けます。ユニセフは、技術的な支援や授業に必要な教材、そして教師に対するサポートを提供しており、10月には、11の教室用コンテナと、さらに多くの資材を支援する予定です。
サラさんが教室で学べるのは1日に1授業だけですが、それでも学校が出来たことに興奮しています。動かなくなったタブレットを抱えて、友人たちにちょっぴり見せびらかしたりして、コンテナ教室の外で何時間も過ごします。
暑く、規模の大きなこの難民キャンプで、サラさんが最も気に入っているのは、水着の上にTシャツを着て、浮き輪を膨らまして、そしてフェイクパールの首飾りを身に着けて、港から海に飛び込むことです。そばでは、年上の男の子たちが飛び込みに磨きをかけています。
いつか、ちゃんとした泳ぎ方を習うつもりだと、サラさんは言います。「もう二度と、役に立たないライフジャケットを着て、沈没するゴムボートに取り残されたくないから」
【関連動画】
【関連ページ】
シェアする