【2020年3月26日 東ティモール発】
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2019年、世界で最も若い国のひとつである東ティモールは、紛争と独立のきっかけとなった住民投票から20周年を迎えました。同僚から“マウン・トニー”と呼ばれ愛されるアントニオ・ゴメスは、同地の事務所で最も長く勤務している現地スタッフです。
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アントニオは27年もの長きに渡りユニセフの活動に取り組んできました。1999年の内戦当時は緊急人道支援、そして内戦後は子どもたちが学校に戻れるよう開発支援に取り組みました。内戦前、内戦中、内戦後の経験、そして、なぜ東ティモールの子どもたちのより良い未来のために活動することに人生を捧げたのかを語ってくれました。
ユニセフとの出会い
私とユニセフとの出会いは1992年です。当時、東ティモールはインドネシアの27番目の州でしたが、東ティモールの開発企画庁と呼ばれる地方政府機関のボランティアになったのが始まりでした。
ユニセフがインドネシア政府と進めるプログラムの協力機関で(現在の東ティモール首都)ディリにありました。ここでの仕事が、私の人生に火を灯しました。東ティモールの子どもたちのために働く——という情熱の火を。
危険な時代
私は1998年、ユニセフがディリに現地事務所の設置をついに許可されたとき、現地職員として採用されました。当時は、事務所の設立とユニセフの存在を周知するための仕事のほか、国内避難民(IDP)への緊急支援に取り組みました。当時ディリにあった最大の避難民キャンプ、それにリキシャ市近隣で暮らす人たちへ食料と安全な水を供給する活動をしていました。
この時期は、特に危険で悲惨でした。移動の際は、安全上の配慮からユニセフにも護衛隊が配備されました。拠点があったディリへ戻る途中で民兵に攻撃され、不幸にも国連職員とNGOスタッフが死傷する事件があったのもこの頃です。
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より良くする
内戦が勃発したとき、家族はインドネシアの東ヌサ・トゥンガラ州の国境を越えた町、クパンへ逃れました。しかしキャンペーン「バック・トゥ・スクール(学校へ戻ろう)」を進めるため、私は東ティモールに戻りました。
学齢期の子どもと教師に関するデータを集め直し、全国の破損した学校を調査したのです。このときに私が集めたデータを利用して、ユニセフは全国のたくさんの学校を修復し、子どもたちがまた教育を受けられるようになりました。
現在は
今は現地事務所の広報部の一員として、メディア対応やアドボカシー活動をしています。ユニセフの活動への認知を高める広報活動のほか、東ティモールの子どもたちに真の変化をもたらす可能性のある政策立案者のような人たちに働きかける仕事です。
東ティモールはあれから大きな進歩がありました。しかし例えば、重度の栄養不良の結果として発育阻害に苦しむ子どもがまだ多すぎます。東ティモールの子どもの半数は十分な栄養を摂取しておらず、身体的および精神的な発達が抑えられてしまい、持って生まれた力を存分に発揮できていないと思います。
支援の意義
私は「バック・トゥ・スクール」キャンペーンのデータを集めている間、全国を回って地元の指導者と話をし、家族や教師と会いました。そのなかで、内戦が子どもたちに与えた傷跡をまざまざと感じました。同時に、水、食料などの必需品や避難所などのユニセフとパートナー団体からの緊急支援がいかに子どもたちとその家族が生きのびる助けになったかも実感しました。
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次の世代
子どもたちや家族が生きのびるだけでなく、子どもの権利が守られ、繁栄し、社会が発展していくことが大事です。内戦中も、内戦が終わった後も、ずっと子どもたちが質の高い医療、教育、保護を受けることができるよう、私たち全員が努力し続けなければなりません。そうでなければ、次の世代が、また同じ危機に直面してしまうからです。
内戦中
最も印象的だったのは、内戦当時の子どもたちの疲れた顔です。
子どもたちは逃げなければなりませんでした。生きのびるために。食糧や水もなく、持ってくることができたのは自分で持ち運べる物だけ。避難民になり、家族や愛する人たちを失いました。家や学校が焼失し、他のインフラも破壊されました。私たちの手には何も残っていなくて、ただ誰もが、今よりも良い未来を望んでいました。
平和の下
この国で今日、学校に行く途中や友達と遊んでいる子どもたちを見ることができてとても嬉しいです。紛争のない国を楽しんでいます。屈託のない無邪気さは、すべての子どもが子どもらしくいられる社会を作るという、私たちおとなとしての責任を思い出させてくれます。
自分の家族、決意
私自身の家族の経験からも、子どもたちが子どもらしく自由に遊べて、心配しないでいられる環境が必要だと痛感しました。難民として家族とクパンへ逃れたとき、一番下の子どもが「お父さん、いつおうちに帰るの?」と私に尋ね続けたのを覚えています。私たち家族がやっと家に帰ったとき、長女が自分の大切な物が詰まっていた寝室と一緒に焼け落ちた、私たちの憩いの場であった家を指さしたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていたのを忘れることができません。4人の子どもの父親、元難民、ユニセフのスタッフとして、東ティモールのすべての子どもたちが安全で愛され、あらゆる機会を与えられるよう、この仕事に取り組んでいこうと心に決めています。
決してあきらめなかった
暴力のない子ども時代、そして教育や医療、安全な水、トイレなどの衛生面を提供することで、ユニセフは全国の何千人もの子どもたちの命を救っています。
私はこの素晴らしい組織の一員であることをとても誇りに思っていて、内戦後、子どもたちがまた学校に通えるよう支援できたことを特に誇りに思います。内戦中もユニセフは予防接種やワクチンを提供し続け、安全な水へのアクセスを確保し、全国に学校を建設しました。
私たちは決してあきらめません。
また、私は子どもたちが芸術を通して内戦への想いを表す2002年に出版された本『子どもたちの目を通して』(Through the Eyes of the Children)を制作したチームの一員であることも誇りに思います。これは子どもたちの目を通して内戦がどのようなものなのかを世界に示しました。私は子どもたちの内戦の傷を癒すことに役立てたと思います。これは歴史的な作品です。
子どもたちが喜んで迎えてくれる
今、全国のあらゆる年齢の子どもたちはユニセフのことをよく知っています。遠隔地にいる子どもたちはユニセフが来ると、希望とより良い生活をもたらしてくれることを知っているので、喜んで私たちを出迎えてくれます。本当に嬉しい気持ちになります。
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支援の成果
東ティモールの子どもたちに快く対応してくれた日本人のみなさまと政府に感謝したいです。日本からの支援を受け、ユニセフは現在、支援が行き届きにくい地域での基本的な給水へのアクセスや出生登録などの重要なプロジェクトに取り組んでおり、数千人の生活を改善しています。
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いつか日本のように
私の願いはいつか東ティモールの子どもたちが自分の権利を認識し、日本の子どもたちと同じようなチャンスを享受できるようになることです。すべての子どもたちがどこにいても、乳幼児期の子どもの発達や教育、参加のような支援を保証することは、健康的な未来につながるので、非常に重要です。
パートナーシップ
ユニセフの東ティモール事務所と日本の強固なパートナーシップのおかげで、この国の子どもたちにとって多くのことが達成されました。東ティモールのすべての子どもたちに、希望と生活の質の向上をもたらし続けることを楽しみにしています。
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