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日本ユニセフ協会

お知らせ

オードリー・ヘップバーンとユニセフの絆
オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)
ユニセフ親善大使(1988~1993)

20世紀半ば、ハリウッド映画界に彗星のごとく現れ、愛くるしい笑顔で世界中を魅了した女優、オードリー・ヘップバーン。その優美な姿と卓越したファッションセンスから今なお、美しきアイコンとして世界中の人々から愛され続けています。

しかし、生身の人間としてのオードリーは、「女優としてのキャリアを活かした晩年の活動にこそ、自分の本当の<使命>はあった」と回想しています。それが、1993年に63歳で他界するまでの数年間、精力的に取り組んだユニセフ親善大使としての活動です。

愛に飢えた少女時代

© UNICEF/UNI43096/Unknown
1945年、ユニセフの前身UNRRAが支援するキャンプでパンを受け取る少女(イタリア・ローマ)

オードリー・キャスリン・ヘップバーン-ラストンは1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルでイギリス人銀行家の父とオランダ人貴族の血を引く母との間に生まれました。

しかし6歳のとき、母親と自分を残して、父親が家を出ます。一晩中泣きつづける母親に、無力感を抱えたまま寄り添う幼いオードリー。

そしてこの「父の不在」が、愛の欠乏となって、少女の胸の奥底に沈みこむことになります。

その後、戦時下のオランダでの貧しく不自由な「牢獄のような生活」を経て、戦後、英国のバレエ学校に入学したことが、女優としての輝かしいキャリアへの礎となりました。

ときの試練で磨かれる美

女優時代のオードリー・ヘップバーン

©PictureLux / The Hollywood Archive / Alamy Stock Photo © 2020 Salon Audrey Limited. ALL RIGHTS RESERVED.
女優時代のオードリー・ヘップバーン

身長の高さと、戦争によるブランクもあって、幼少期から抱いていたバレエ団のプリマになる夢を絶たれたオードリー。確たる目標もないまま、欧州でミュージカルや映画の端役に出演しているとき、ハリウッドデビューの好機が訪れます。

そして「演技は素人。でも自らが体験した人生での悲しみ、苦しみを演技に生かし、人々を共感させた」と評された初主演作『ローマの休日』で、見事オスカー(アカデミー賞 主演女優賞)に輝き、一躍時代の寵児となります。

仕事は次々と舞い込み、名声は高まる一方。しかし2度にわたる結婚、離婚のなかで2児を育てるなど、オードリーのプライベートは苦難の連続でした。

幼いころから渇望していた「無償の愛」はいつも、手に入ったかと思うとすぐに、彼女の指の間からこぼれ落ちてしまうのです・・・。

こうした人生経験を経て、晩年、オードリーは友人で俳優のサム・レヴェンソンが孫娘に宛てて書いた手紙を詩の形式で書き直し、「ときの試練で磨かれる美」とタイトルをつけて愛読していました。その詩がこちらです。

ときの試練で磨かれる美

 

魅力的な唇になるために、やさしい言葉を話しなさい。
愛らしい目を持つために、人のよいところを探しなさい。

おなかをすかせた人に食べ物を分けてあげれば、身体はほっそりするよ。
1日1回子どもが指で梳いてくれれば、髪はつややかになる。
決してひとりで歩いてはいないことを知っていれば、弾んだ足取りで歩けるはず。

おまえの未来のために伝統を残しておこう。
愛情をこめた人のやさしい慈しみは、けっして失われることがない。

物は壊れたらおしまいだけど、人は転んでも立ち上がり、
失敗してもやり直し、生まれ変わり、
前を向いて何回でも何回でも何回でもあらたに始めることができる。

どんな人も拒絶してはいけないよ。
助けがほしいとき、必ず誰かが手を差し伸べてくれることを覚えておきなさい。

大きくなればきっと自分にもふたつの手があることを発見するだろう。
——ひとつの手は自分を支えるため。もうひとつの手は誰かを助けるため——

おまえの「すばらしき日々」はこれから始まる。
どうかたくさんのすばらしき日々を味わえるように。

引用:『AUDREY HEPBURN 母、オードリーのこと』
ショーン・ヘップバーン・フェラー 著
実川元子 訳


ユニセフとの再会

「ユニセフと関われるなんて幸せだった。なぜなら、私自身が第二次世界大戦の直後にユニセフから食べ物や医療の援助をうけた子どものひとりだったから」
――オードリー・ヘップバーン――

「何度も地獄を見たけれど、そのたびに抜け出せた。助けが来たり、何かが起こる」とオードリー自身も述べているとおり、苦難も多かった分、彼女の人生には多くの〈ギフト〉がちりばめられていました。

1980年、2度目の離婚直前に彼女の人生に登場した最晩年の恋人、オランダ人俳優のロバート・ウォルダースとの出会いもそのひとつ。

出会いから数年後、ウォルダースの紹介で、ユニセフの主催する会で戦争体験について語ったオードリーを、当時のユニセフ事務局長ジェームス・グラントが親善大使にスカウトします。

恋人ウォルダースから「きみのいままでの人生は、この仕事(=ユニセフでの活動)ができるかどうかのオーディションだったんだ。そろそろ正式なものにしたらどうだい?」と背中を押されたオードリーは、ユニセフの申し出を快諾。

まるで運命に導かれるかのように、ようやく手にいれたスイスでの平穏な生活から、ふたたび彼女は世界中を飛びまわる生活へと足を踏み入れたのです。

持てる力を子どもたちのために

エチオピアで子どもと笑顔を見せるオードリー。ユニセフが支援する保健クリニックや栄養支援の現場、干ばつで捨てられたり親を失った子どもたちのための孤児院を訪問しました(1988)

© UNICEF/UNI40095/Isaac
エチオピアで子どもと笑顔を見せるオードリー親善大使。ユニセフが支援する保健クリニックや栄養支援の現場、干ばつで捨てられたり親を失った子どもたちのための孤児院を訪問しました(1988)

ユニセフ親善大使に就任した1988年、彼女は長年つづく内戦と干ばつでひどい飢きんに見舞われていたエチオピアに赴きました。

現地でのユニセフの緊急支援活動を視察したオードリーは、その後の数週間、精力的に米国、カナダ、欧州のメディアによるインタビューを受けます。その数は、ときに1日15件にも及びました。

その後も、トルコでのポリオの予防接種活動、ベネズエラの女性向け研修プログラム、エクアドルの路上で暮らす子どもたちを保護する取り組み、グアテマラとホンジュラスでの給水活動、エルサルバドルのラジオ識字プログラムの視察などをこなします。

また、バングラデシュの学校やタイの貧困家庭の子どもたちへの支援、ベトナムでの栄養支援活動、スーダンの難民キャンプ視察なども行いました。

 

「人道とは、人を幸福にすること、そして苦しみから救うこと。世界がひとつになるのが、私の夢です」
――オードリー・ヘップバーン――

ソマリアの給食センターで重度の栄養失調の子どもを抱くオードリー(1992年)

© UNICEF/UNI52404/Press
ソマリアの給食センターで重度の栄養不良の子どもを抱くオードリー親善大使(1992年)

 

ケニアのソマリア人居住地で好奇心いっぱいの子どもたちに囲まれるオードリー(1992年)

© UNICEF/UNI52409/Press
ケニアのソマリア人居住地で好奇心いっぱいの子どもたちに囲まれるオードリー親善大使(1992年)

 

視察から戻ると、オードリーは自分の目で見てきたことを米国議会で証言したり、世界71カ国の首脳が参加した「世界子どもサミット」へ参加したり、さらには報告書「世界の子どもたちの現状」の発表、ダニー・ケイ国際児童賞授賞式の主催、募金カードのデザイン、慈善コンサートツアーへの参加などを通じて、世界の子どもたちの現状とユニセフの支援活動の意義を訴えつづけました。世界の注目を集めることができる、自らの<声>を使って——。

その功績が評価され、1992年には米国最高の栄誉である大統領自由勲章を授与されます。

同年、がんに侵されながらも、フランス、ケニア、ソマリア、スイス、英国、米国を訪問するなど、ユニセフの活動を継続。1993年1月20日、スイスの自宅で家族に見守られながら静かにその生涯を閉じました(享年63歳)。

私は昔からユニセフを知っていました。

およそ45年前、戦場となったヨーロッパで飢餓に苦しんだ何百、何千万人の子どもたちのひとりだった私は、オランダが解放された直後にユニセフからの支援を受けました。

ユニセフは人道主義的な機関であって、慈善団体ではありません。
手を出して持っている人たちに施し物を配り福祉を実施するのではなく、発展を手助けすることが仕事です。

エチオピア、ベネズエラ、エクアドル、中央アメリカ、メキシコ、スーダンという国を回りましたが、私は一度たりと物欲しげに手を出す人を見ませんでした。
その代わりに静かに威厳をもって、自分たちの手で発展するためのチャンスを求めている人たちに出会いました。

子どもたちに予防接種をしたり、食べ物と水を与えたりするだけでは充分ではありません。

必要なのは、人の破壊衝動という病――私たちが大切にしているもの、生命を維持するためのものすべて、呼吸する空気、生命を維持している地球、そして何より大切な子どもたちまでをも破壊してしまおうとする衝動――を癒すことです。

平和の樹立こそが、すべての解決策です。

(ユニセフ親善大使に就任して1年半後、国際連合加盟国にGNPの1%を途上国支援にあてようと呼びかけた声明文より)

 

【参考文献】
・『母、オードリーのこと』 ショーン・ヘップバーン・フェラー著/竹書房 ほか

 

♢映画『オードリー・ヘプバーン』

映画オードリーのメイン画像

 

愛をもらうより、与えることを選んだ——

歴史に残る偉大な映画スター、オードリー・ヘプバーン。

世界中から愛された彼女の光と闇。

オードリーの生き方は、きっと、あなただけの幸せを見つけてくれる。

映画公式ホームページはこちら

2022年5月6日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか
全国ロードショー

 

<ストーリー>
「ローマの休日」(1953)で若干24歳にしてアカデミー主演女優賞を受賞、革新的な存在でスターへの道を駆け上がった彼女の本当の生涯は、きらびやかさとは正反対のものだった。そして後年、ユニセフ国際親善大使として彼女は世界中の子供達のために、自身の名声を捧げ、この活動のために使った。恐怖や憎しみに溢れる世界で愛の重要性のために立ち上がったオードリー。この信念こそが私たちの中に永遠に彼女が生き続けている証であり、極めて特別なオードリーの人生が鮮やかにスクリーンによみがえる――。
配給:STAR CHANNEL MOVIES
原題Audrey/2020年/イギリス/100分

 

<ユニセフ特別試写会開催>

ユニセフバナーと映画ポスター

2022年4月末、公開に先立ち、映画『オードリー・ヘプバーン』ユニセフ特別試写会が東北新社主催で開催されました。映画上映に先立ち、日本ユニセフ協会 遠藤事務局長が挨拶いたしました。

「今年2月24日、ウクライナ危機が世界中の人々に衝撃を与え、その日以降、日本ユニセフ協会に多くの方々よりあたたかいご支援を寄せていただいております。
ユニセフは、750万人いるウクライナの子どもたちを紛争の危機から守るため、発生直後から、安全な飲み水や医療物資を届け、現金給付を行い、子どもたちが心理ケアを受けながら避難先で安全に生活を送れるよう支援を続けております」

とウクライナにおける皆様のご支援への感謝と、現地におけるユニセフの活動に触れたのち、オードリー・ヘップバーンさんの親善大使としての活動について語りました。

 

また会場では、オードリー大使の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーさんからのビデオコメントが上映され、ユニセフ・サポーターの皆さまにあたたかいメッセージが贈られました。

オードリー大使の長男ショーンさんのビデオメッセージのコメント

試写会での募金箱とパンフレット

映画をご覧になったサポーターの方々からは、
「無償の愛の尊さに感動」「家族に心から愛され、幸せだった人生」「ご自身の苦しみを他者への愛に変えた人生」といった感想の声が上がったほか、
「今こそ、観るべき映画!」「愛をありがとうございました」「これ程心に残った美しい一生はない」などとオードリーの生き方に対する感激の言葉を多くいただきました。

 

 

オードリー・ヘップバーン ユニセフ親善大使 関連動画

晩年、子どもの権利のために尽力したオードリー・ヘップバーン ユニセフ親善大使。
今も彼女の遺志は生き続けています。

困難な状況にある子どもたちが、生まれ持った権利を守られ、平和に健やかに成長できることを目指して活動するユニセフ。

その活動は皆さまのご支援によって支えられています。

毎月(定額)のご寄付 今回(一回)のご寄付

※最も支援が必要な子どもたちを支え、ユニセフの様々な活動に役立てられています。

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