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公益財団法人日本ユニセフ協会

スマトラ沖地震・津波から10年
長谷部誠選手、バンダ・アチェ訪問
被災地の子どもたちと交流

【2014年12月23日 バンダ・アチェ発】

子どもたちとのミニ・サッカーに参加した長谷部選手。
© 日本ユニセフ協会/2014/Mariko.Miura
子どもたちとのミニ・サッカーに参加した長谷部選手。(12月23日 ランピネウン第24小学校で)

2004年12月26日、スマトラ島沖で発生したマグニチュード9.3の大地震により、最大34mもの津波が発生。インドネシアを中心に22万人が犠牲になり13万人が負傷しました。その辛く悲しい出来事から間もなく10年。かつて壊滅的な被害を受けたバンダ・アチェや周辺の地域には、マグニチュード8クラスの耐震性を備えた学校が建ち、マラリアなど、震災以前から子どもたちを苦しめてきた問題も解決した地域も見られます。

津波から10年の道のり

“Build Back Better” (ビルド・バック・ベター)=「災害発生以前からあった問題も復興支援を通じて解決する」を理念に掲げ、スマトラ島沖大地震・津波被災地での復興支援に取り組んできたユニセフ(国連児童基金)は、来年3月に仙台で開かれる「第3回国連防災世界会議」に向け、この地域での“成果”を紹介しながら、“子どもの視点に立った防災・減災・復興”の重要性を、国際社会はもとより、この会議をホストする日本政府関係者に訴えてまいりました。

日本ユニセフ協会は、こうしたユニセフ本部の動きと連携し、東日本大震災で津波の被害に遭った子どもたちを幼稚園建設という形でサポートしてくださっているドイツ・プロサッカーリーグで活躍中の長谷部誠選手に、復興を遂げた最大の被災地の一つ、スマトラ島のバンダ・アチェで暮らす子どもたちのもとへの訪問を要請。所属チームはじめ関係各所のご了解を得、現地時間12月22日(月)お昼頃より翌23日(火)午後に掛けての訪問が実現しました。

防災を真剣に考える若者たち

震災犠牲者約4万8,000人が眠るランバロ(Lambaro)共同墓地で、墓地に立つモニュメントに、花を献げた。
© 日本ユニセフ協会/2014/Mariko.Miura
震災犠牲者約4万8,000人が眠るランバロ(Lambaro)共同墓地で、墓地に立つモニュメントに、花を献げた。

12月20日(土)、冬期休暇前のリーグ最終戦を終えたその足でフランクフルトを発った長谷部誠選手は、現地時間22日(火)昼過ぎ、2〜3日程前から厚い雲に覆われ、時折小雨がまじる天候が続くインドネシア、スマトラ島の西端バンダ・アチェに到着しました。足掛け2日間の長旅の後ようやくこの地に到着した長谷部選手が最初に向かったのは、バンダ・アチェ市内各地に設置された共同墓地の一つ、震災犠牲者約4万8,000人が眠るランバロ共同墓地。当時、トラックで次々と運ばれてきた遺体は、身元を確認する暇もなく、この地に何層にも重ねられて埋葬されたといいます。長谷部選手は、埋葬された人々の名を刻んだ墓標も無い墓地に立つモニュメントに、花を献げられました。

訪問したバンダ・アチェ第一高等学校の生徒たちと。震災当時小学生や就学前の年齢だった高校生18人の中には、両親や親戚、友人を失った生徒も少なくない。
© 日本ユニセフ協会/2014/Mariko.Miura
訪問したバンダ・アチェ第一高等学校の生徒たちと。震災当時小学生や就学前の年齢だった高校生18人の中には、両親や親戚、友人を失った生徒も少なくない。

長谷部選手は、次に、バンダ・アチェ第一高等学校を訪問。震災当時小学生や就学前の年齢だった高校生18人(男性7人、女性11人)の中には、両親や親戚、友人を失った生徒も少なくなくありません。「自分は今で地震がくると居ても立ってもいられなくなる。特に子どもにとって、心のケアの支援はとても大切だと思う」「災害から身を守るには、正しい知識が最も悲痛用だと思う。当時、多くの人が、どうしたら良いのか分からなかった。でも今は、地震が来たら、津波が来たら何をすれば良いのかわかる。ハードも大切だけど、そうしたソフトがとても大切だ」「私は大変なことを経験したけど、今はこうして高校で勉強することができている。一方で、インドネシアには、まだ学校にも通えない子どもたちがいる。将来は、そうした子どもたちのために何か役に立てる仕事をしたい」生徒たちは、約1時間の対話の中、あの未曾有の大災害がもたらした様々な困難をどう克服してきたのか、これからどう生きていきたいのか、長谷部選手に熱く語りました。

「自然災害は防ぐことはできない。でも、僕たちはそれに備えることはできる。10年前にあの大災害を経験した若者が、こんなに真摯に、そして真剣に、防災や復興、そして地域や国の将来を考えていることを知って、そうした若者に出会うことができて、本当に嬉しかった。こんな若者がいるインドネシアは、もしまた大きな災害が来ても絶対大丈夫だと、そう確信しました。今日ここで高校生から伺ったお話は、日本に帰って、一人でも多くの人たちに伝えたいと思います」(長谷部選手)

震災遺構を訪れた長谷部選手。
© 日本ユニセフ協会/2014/Mariko.Miura
津波で2.6km流され、現在、メモリアルパークとして保存されている発電船や、震災後、日本などの支援で各所に建設された津波避難タワー、民家の屋根に打ち上げられた漁船などの震災遺構を訪れた。

この後、長谷部選手は、津波で係留地から2.6km流され、現在、メモリアルパークとして保存されている発電船や、震災後、日本などの支援で各所に建設された津波避難タワー、民家の屋根に打ち上げられた漁船などの震災遺構を訪れ、緊急活動支援にもあたっていたユニセフの現地スタッフから、当時の様子を聞いた。

長谷部選手、子どもたちの架け橋に

ヌルル・フダ幼稚園を訪問し、南三陸町の「あさひ幼稚園」の子どもたちから託されたメッセージ(寄せ書き)と文房具を子どもたちにプレゼントした。
© 日本ユニセフ協会/2014/Mariko.Miura
ヌルル・フダ幼稚園を訪問し、南三陸町の「あさひ幼稚園」の子どもたちから託されたメッセージ(寄せ書き)と文房具を子どもたちにプレゼントした。

バンダ・アチェ滞在2日目の23日、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南三陸町で、日本ユニセフ協会を通じて幼稚園の再建を支援した長谷部選手は、この地域の人々が、大災害の直後にユニセフが建てた仮設小学校の建物を引き継いで開園したヌルル・フダ幼稚園を訪問。幼稚園は、就学率が100パーセント近いながらも、学業についてゆけずに同じ学年を繰り返す子どもも少なくないインドネシアで、就学前の準備ができる場所として、また、子どもたちの社会性や精神的な発達を促す場所としての役割が注目され、震災以降、被災地のみならず、インドネシア全域でその数が増加しています。

紙芝居を使ってインドネシア語で自己紹介する長谷部選手。
© 日本ユニセフ協会/2014/Mariko.Miura
紙芝居を使ってインドネシア語で自己紹介する長谷部選手。

南三陸町の「あさひ幼稚園」でも、「紙芝居」や「人形劇」など、「はせべせんせい」として子どもたちと交流を続けてきた長谷部選手。この日も、自身の半生を紹介する「紙芝居」を、たどたどしいインドネシア語で披露し、あさひ幼稚園の子どもたちから託されたメッセージ・フラッグ(寄せ書き)と文房具を、子どもたちにプレゼント。ヌルル・フダ幼稚園の子どもたちからも、あさひ幼稚園の子どもたちへの絵とお手紙のプレゼントを託されました。

一番大切なこと

ランピネウン第24小学校で定期的に行われている避難訓練に参加した長谷部選手。
© 日本ユニセフ協会/2014/Mariko.Miura
ランピネウン第24小学校で定期的に行われている避難訓練に参加した長谷部選手。

震災後、ユニセフは、バンダ・アチェで、マグニチュード8クラスの地震にも耐えられる耐震設計の小学校345校の再建を支援。教員の研修なども支援しながら、建物(ハード)だけではなく、万が一の時の対処法などソフト面での支援を行ってきました。長谷部選手は、そうした学校の一つ、ランピネウン第24小学校を訪問。定期的に行われている避難訓練に参加しました。

2日間の訪問を終えた長谷部選手。「何が最も印象に残りましたか?」という現地ユニセフ事務所のスタッフの質問に、次のように答えました。「とても短い期間でしたが、たくさんの場所を訪れ、多くのことを学ぶことができました」「耐震性の高い建物や津波避難ビルなど、10年経ったバンダ・アチェには、万が一への備えが、まさに目に見える形で準備されていることが実感できます」「でも、そういった(ハードの)面だけでなく、今日小学校で見た避難訓練のようなことも含めて、万が一の時にどういった対応をすべきかという訓練が、繰り返し繰り返し行われるといったこともとても大切なんじゃないかと」「さらに印象深かったのは、あれだけ真剣に防災や復興のことを考えている若者たちがこの国にいるということ。震災の経験や教訓は、次の世代に引き継がれなければならないし。そういったことが、防災を考える上でとても大切なことなんじゃないかと。日本の方々にも、インドネシアには、彼らのような若者がいることを伝えていきたいです」

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