2024年2月21日パレスチナ・ガザ発
ガザ地区で暮らすラシャさん一家には、7歳、5歳、3歳の子どもたちがいます。子どもたちは生まれた時から、戦闘の恐怖と不安の中で暮らしていましたが、昨年10月に戦闘が激化して以来、一家の暮らしは、急激に悪化しました。
食事は1日1回、物資も不足
ラシャさん一家の自宅はガザ地区北部にあり、状況は日に日に悪くなっていきました。食料や物資は圧倒的に不足し、子どもたちは、絶え間なく続く爆撃の危険の中に置かれました。夫婦は、子どもたちのための食料や生活必需品を探すことに日々奔走し、なんとか手に入れたわずかな食べ物で養おうと必死でした。一家の食事は1日1回がやっとで、レンズ豆の缶詰などで何とかしのいでいました。
「一番下の子どもが飲むための粉ミルクが、残りわずかになっていて、子どもが少しでも満足感を得られるよう、哺乳瓶にまず粉ミルクをスプーン1杯だけ入れて、飲む前に匂いを嗅がせるようにしていました」とラシャさんは語ります。子どものおむつも配給される分しかないので、寝る時だけ使うことにして、日中はおむつなしで、注意深く見守るようにしていたと言います。
いよいよ戦況が悪くなり、一家は、思い出の詰まった自宅を捨てて、ガザ地区の南部に避難するという苦渋の決断をしました。
避難する準備をしている時、いつもと違う状況を察した子どもたちが、「服やおもちゃは持っていけないの? なぜ逃げないといけないの? どこへ行くの?」と口々にラシャさんに尋ねました。
ラシャさんは子どもたちを落ち着かせようと、「あなたたちを守るために安全な場所に行くのよ」とやさしく説き聞かせ、戦争が終わった時には新しい服やおもちゃを買うよと約束しました。その時が現実になることを望みながら...。
想像を絶する光景の中、南部へ向かう
ガザの南部へ向かう旅路は過酷そのものでした。ラシャさんは家族とともに、南部のハンユニスにある両親の家に向かって出発しましが、通りは安全を求めて移動しようとする人々でごった返し、戦車や兵士が道路をふさいでいました。
「私の子どもたちは怯え、頭を下げ、泣きながら、なんとか歩いていました。通りには遺体が並んでいました」(ラシャさん)
空爆の音が鳴り響き、走る戦車を横目に見ながらの移動について、7歳になる娘のミミちゃんは、「すごく怖かった。たくさんの家が壊されて、道には死んだ人たちがいて…。一番怖かったのは戦車。本当に怖かったの」と話します。
妊娠中で、さらに持病のサラセミアを患っているラシャさんにとって、歩いての避難は、大変な労力を要するものでした。「想像を絶する光景の中を歩き、立ち止まることもできず、途中で見かけた負傷した人々を助けることもできませんでした」とラシャさんは辛そうに振り返ります。「私が持ってこられたのは、パスポートとパン、子どもたちのための水が1本入った手提げ袋だけでした」
ラシャさんは、処方されていた鉄の錠剤を飲み切り、途方もない疲労感に襲われながらも、胎動が感じられないときはお腹にいる赤ちゃんのことを心配していました。なんとかハンユニスにある実家に到着した時は、色々な感情が交錯し、安堵の気持ちが溢れてきたと振り返ります。
「医療を受けられない、過酷な現実」
「今も、お腹の赤ちゃんのことが心配なのはもちろん、絶え間ない痛みもあり、体重も減っています。相談できる医師もおらず、とても辛いです」と、ラシャさんは不安げに語ります。そして、もし出産のときに病院にアクセスできなければ、家族に出産の手助けをしてもらうつもりです。「病院に行くことができなければ、家族の手を借りる出産が選択肢の一つになります。これは、医療を受けられないという、過酷な現実なのです」(ラシャさん)
絵を描くことが好きなミミちゃんは、「以前のように楽しいことを描きたいけれど、もう楽しいことなんて何もない」と言い、自分が見た戦車、飛行機、死んだ人の絵を描いています。それでも、早く戦闘が終わって、自分たちの生活が取り戻せることを願っています。「前はよく、花やお日さまや家族の絵を描いたの。おうちに戻って、家族みんなで一緒に安心して暮らせたらいいのに」(ミミちゃん)
ガザ地区では、ラシャさん家族のような170万人もの人々が、住み慣れた自宅からの避難を強いられ、未来への希望も持てない中で、一日一日を何とか生きています。
ユニセフは、パートナーとの協力のもと、ガザ地区で避難生活を送る家族への支援を続けています。栄養治療食や水、医療用品などの命を守る支援物資の提供をはじめ、切実なニーズに対応するための支援を届けています。
しかし、ガザの人々と人道支援従事者の安全を守り、必要とされる支援を持続的に届けるためには、恒久的な人道的停戦が必要です。