12月26日(金)バムの町を襲った地震により、およそ3万〜4万人が亡くなり、3万人が負傷したと推定されています。こうした人々の多くは、治療のためイランの別の町へとバムを出ました。飛行機やヘリコプターで。あるいは、倒壊した建物によってひどくいたんだ車で。生存者達は、かつては自分の家だったところに座り込み、瓦礫の中から何とか引き出せるものを探しています。
この災害に対する国際救援活動は迅速で大規模なものでした。ユニセフは、即座に、保健キット、テント、簡易発電機、おとな/子ども用毛布、そして「スクール・イン・ア・ボックス」を届けました。イラン政府当局との協力で何を優先させるかが迅速に決められました。ユニセフは、子どもの保護、水と衛生、そして教育分野における活動の主導機関となり、すでに6人の外国人スタッフと4人のイラン人スタッフをバムに送りました。
バムの町が再建され、人々が立ち直るには時間がかかるでしょう。人々は長期の見通しを何も立てられずにいます。起こったことに対するショックがあまりにも大きいのです。この地域の200km四方に大きな町はありません。地震は砂漠地帯を襲わずに、まさに町の中心部を襲いました。それも、金曜日の早朝、人々がまだ眠っているときに。
人々が先のことを考えられないもうひとつの理由として、これからバムの町がどうなっていくのかが分からない、あるいは何が残されるのかが分からない、ということが挙げられます。公式報告では、バムのおよそ70%の住居が倒壊したといいます。しかし、残った建物や耐震性の建物で暮らしている人はほとんどいません。
データの不足が対応を難しくしています。バムの人口は10万人ほどでしたが、現在、ここに何人が残されているのか、誰も分かりません。数値がどうであれ、一番の被害者は子どもたちです。イランの人口の半分以上は18歳未満ですから、死亡者や負傷者、トラウマを負った人々の半分が子どもと考えてよいはずです。
すべての家族は、町に残るか、去るかを決めなければなりませんでした。多くは親類の生死が分かるまでは町を去りたがりませんでした。しかし、すべてを失い、ひとりぼっちになってしまった人々には、町に残る理由はありません。まだ動く車があればそれを使い、外の町から知人や親類が迎えに来ればそれに乗って、町から出て行きました。彼らは、近隣の村や、世話になれる人がいる場所に散らばっています。
バム郊外のバラバット村に住むホセイニ一家は比較的幸運でした。家族で亡くなった人は誰もありませんでした。13歳のモハメッド、11歳のアリ、9歳のモーセンは父親が書類作業を終えるのを待っています。これから父親は、町の外のテントで待っている母と5歳の妹を車で迎えに行きます。車は、シスタン・バルチスタン州のイランシャールまで500kmほどの道のりを走る予定です。
ラマザンデ一家とホルシーディ一家は、家族の多くを地震で失い、これから町を出るために待っています。両家は、バムからあまり遠くない2つの村に親類がいます。彼らは、イラン赤新月社の配給所では何ももらえなかったと不満を漏らしました。
イランでも貧しいこの地域では、多くの家族が日用の必需品を買う現金を持っていません。ユニセフ・イラン事務所代表カリ・エッジはバムの被災地を訪れ、住人が「子どもたちの学校のことを考えるなんて早すぎる、一番ほしいのは子どもの冬用の衣服だ」と話すのを聞きました。ユニセフは、テヘランからすぐさま1万セットの子ども用衣服(すべてのサイズのコート、ジャンパー、ズボン、ブーツ、ソックス、手袋など)を調達しました。
地震から1週間が経ち、バムで生き残った子どもたちは国中に散らばり、支援を必要としています。それは今だけではなく、明日も、来週も、来月も、そして今後数ヶ月にわたって必要なのです。町を再建するのに時間がかかるのと同様に、子どもたちの生活を立て直すにも時間がかかります。 |