財団法人日本ユニセフ協会




ユニセフ・イラク現地報告会レポート

戦後のイラクの子どもたちの現状とユニセフの緊急・復興支援
—日本人ユニセフ職員による現場報告—

■日時: 2003年8月8日(金) 15:00−16:00
■会場: ユニセフハウス 1階 ホール
報告者: ユニセフ・バグダッド事務所
       物資調達担当官・竹友 有二 氏
 

講演1  8月8日、ユニセフ・バグダッド事務所の物資調達担当官・竹友有二さんの一時帰国に伴い、ユニセフハウスにて「ユニセフ現地報告会」が開かれ、イラク戦争後のイラクの子どもたちの現状と、イラクにおけるユニセフの支援活動についてご報告いただきました。

イラクと関わるようになったきっかけ
 私がイラクと関わるようになったのは、1991年の湾岸戦争のころからです。湾岸戦争後にクルド人が当時のサダム・フセイン政権に対して蜂起しましたが、すぐに押しかえされ、クルド人たちは山の中を逃げまどいました。その時、私は(ボランティアとして)ザホーというところで食糧配給をしていました。2〜3月にかけて活動していましたが、あてがわれたテントでは寒くて、その中にさらに一人用のテントを立て、寝袋にくるまって寝ていました。それでも震えていたことを覚えています。
 1989年にフセインは化学爆弾を使い、爆弾ひとつで5000人が亡くなったといいます。クルド人撲滅運動によって多くのクルド人が犠牲となり、村々がつぶされました。当時、スーレマニアに住んでいましたが、スーレマニアにある家はつくりがおかしくて、最初、私たちはその家を見て笑っていました。しかし、実は、男の子が戦争に取られてしまうために隠し部屋をつくっていたのです。紛争地域の悲しさを感じました。
 今回の戦争がはじまったときも、1991年と同じようなクルド人の悲劇が予想されていました。戦争がはじまってから、住民の半分ぐらいが国境に逃げたものの、国境周辺の学校や保健所が役立ち、人々は山にまで逃げ込まずにすんだそうです。それから一週間以内に、スーレマニアやアルビルでは、人びとが町に戻ってきて、かなりリラックスした状態になったようです。

ユニセフの物資調達担当官になって…
 2001年から、イラク北部のスーレマニアでユニセフの物資調達担当官として働くことになりました。イラクは全部で18州あり、そのうちの3州(ドホーク、アルビル、スーレマニア)はクルド人自治区です。クルド人自治区の人口はおよそ300万人といわれています。この地域には、2つの政党があり、ドホークとアルビルはバルザニが率いるKDP(Kurdistan Democratic Party:クルド民主党)、スーレマニアはタラバニ率いるPUK(Patriotic Union of Kurdistan:クルド愛国同盟)の支配地域です。
 私が赴任した2001年にはKDPとPUKの争いは鎮静化していました。96年が3自治区の内戦状態のピークでした。その後、アルビルとスーレマニアの間には停戦地域が設けられました。
 スーレマニアとアルビルで、1年半勤務し、物流部門の合理化に取り組みました。水道部門、教育部門、保健部門など、それぞれに支援物資の倉庫があり、そこから村々まで物資を運びます。それをいかに合理的に行うか、ユニセフを通して配給した物資がちゃんと使われているか、などが課題でした。
 学校や保健所の修復などは、入札を通して業者を決め、実施されます。これらのプログラムの財源となったのが“石油と食料の交換計画” オイル・フォー・フード・プログラム(OFFP)でした。OFFPは1996年の国連決議986号から始まり、その後、延長されてきましたが、今年末で終了になります。OFFPはイラク産出の石油の売上を国連管理下におき、その一部を人道援助にあてていこうというものです。これに関しては議論がありましたが、少なくともクルド人自治区に関しては非常に役立ちました。

イラクの中のクルド人自治区
 北の3州と南の15州の状態はかなり違いました。北部自治区では、衛星テレビ、インターネットカフェ、携帯電話などがかなり充実していましたが、南には何にもありません。また、通貨も違うものを使っています。南部15州ではサダム・フセインの顔が入った新札を使っていますが、北部では旧札を使っています。南部では為替レートが下落しています。私がイラクに帰ったときは1ドル2000ディナールだったのが、今では、1ドル1万ディナールにまで落ちていると思います。それに対して、北部自治区では最初が15ディナールだったのが、変化への期待感により1ドル5ディナールにまであがりました。 通貨の下落は、われわれのプロジェクトにも影響を与えました。地元の業者に修復や緊急用の災害用品を注文していましたが、業者から「これでは利益にならない、契約を破棄してほしい」と言われたこともありました。

 このように、北部のクルド人自治区はイラクの中でもようすが異なっており、今後、イラクが一つの国として発展していくための困難さがうかがえます。先日形成された評議会のメンバーにもタラバニ、バルザニ両者が入っていますが、クルド人の政治的独立をどうするのか、軍隊はどうするのか、など課題があります。また、水を求めて穴を掘っても石油が出てくるような土地柄です。そうした地域はどこに帰属するのか…など石油をめぐる問題もあります。
 クルド人の人口は2000万人以上といわれ、トルコ、イラン、シリアと国境をまたがって居住地域が広がっています。アラビア語とは全く違う、ペルシア語に近いような独自の言語を持っています。イラク北部3州は自治区として独立化してしまったため、アラビア語教育が行われていません。アラビア語が話せない若者もいます。
 クルド人の最大のお祭りが、3月21日、日本では春分の日、にあります。冬の間は寒い、まさに乾燥した茶色い世界が春になると緑がわっと芽吹いて、命の息吹きを感じさせる。緑と花に彩られた世界で、絵画やじゅうたんをみてもスーレマニアのクルド人地区とバグダッドのものでは色が違います。

イラクでの“スフィア・プロジェクト”と物資調達の困難
 私がユニセフ・バグダッド事務所に移ったのは、昨年の8月です。すでに、イラク戦争の可能性が日増しに高まっていました。国連、国連機関やNGOは、コンティンジェンシー・プラン(緊急事態計画)を作りはじめていました。
 1990年代半ば、ルワンダの内戦で、大量の難民が発生したことがあります。私は、当時、最大のルワンダ難民キャンプのあったタンザニアでUNHCR職員として4年間勤務していました。ルワンダにおける失敗例や成功例を生かし、緊急時いくつかの国連機関とNGOが連帯して、どのように働けばいいかをまとめたスフィア・プロジェクトというものがあります。
 これによりますと、まず、緊急時、災害時でも基本的人権の尊重が重視されることを確認します。そして、どのようなリスクがあるかを災害別に予想し、達成目標と最低基準を定めていきます。たとえば災害時において水がひとり当たりどれくらい必要かについては、スフィアプロジェクトによって、イラクではひとり当たり1日10リットルと試算されました。これを、もとに、今も1人あたり1日10リットルという基準でプロジェクトが実施されています。

 昨年の8月以降、本当に、できれば、戦争がさけられればベストだけれども…、と思いながら、深夜まで仕事に打ちこんでいまいた。時間との勝負でした。コンティンジェンシー・プランを練り上げ、課で救援物資の種類を決めていきます。50種類以上のものを輸入しなければなりませんでした。戦争直前には、イラクは市場からものがなくなりました。たとえば脱脂綿ですらどこにいっても買えないような状況です。
 このとき国外から輸入したものには、高たんぱくビスケット、栄養不良児のための栄養強化ミルク、はしかの予防接種ワクチン、抗生物質、下痢による脱水症状を防ぐ経口補水塩(ORS)、毛布、移動式浄水カー(川の水などを緊急用に1時間に2万リットル浄水できる)、浄水薬品(塩素錠剤で旅行用のタブレットのようなもの)、水の容器(5000リットルから1万リットルの大型のもので縮めることができる)、ウォーター・ブラダー(ゴムボートのような素材でできた、貯水用タンク)、10リットルのポリタンク、石鹸、灯油ストーブ、医療用や学校用テント、必須文房具などがありました。イラク国内でも買えるものは国内で調達しました。

 経済制裁下のイラクでは、物資の輸入は非常に複雑なものでした。ニューヨークにある経済制裁委員会に一つ一つの物資の輸入の認証を受けなければならないのです。ニューヨークは土日が休みで、イラクは金土が休みになり、週末もコミュニケーションがとれず、メールで連絡しようとしても通信事情が悪く、容量が足りずに送れなかったり、なんてことがよくありました。
 輸入したものを直接現地に持って行けないというジレンマもありました。たとえばビスケットをイラク南部のバスラまで運ぶとすると、まず、はヨルダンまで船で来て、首都のアンマンを経由してバグダッドを通って、バスラまで。ぐるっと距離にして2000キロくらいをまわらなければなりません。本当に時間との勝負でした。

 戦争直前の頃には、午前中に何をするかを決め、昼には業者を呼び入札し、夜10時か11時くらいには開札し、翌日には計画を開始する、というような非常に短時間のサイクルで仕事をしていました。そのころ、業者さんからの手紙に、「この時期になってもユニセフが活動をつづけてくれるのは本当にありがたい」とあり、励まされたことを覚えています。いよいよインターナショナルスタッフは避難するという日にも、4つの契約があり、4つとも契約を発効してから避難しました。

イラク脱出〜イラクの外からの人道援助〜
 3月18日、われわれ国連のインターナショナルスタッフは陸路でヨルダンに退避しました。このときイラク国内に残っていたインターナショナルスタッフは5人でした。最後まで残れたことは、日本人として誇りにも思います。
 しかし、そのときは本当に呆然としました。17日の夜に、「明日出る」といわれ、これでもうだめなのかと、とてもショックでした。朝の9時半ごろバクダッドを出ましたが、そのときの町の風景が通常通りだったことが印象に残っています。人々は買い物に出かけたり、学生が歩いていたり。「本当にこれから戦争がおきるのか」と思いましたが、国連が出た後、アメリカの攻撃が始まりました。現地スタッフも、かなりショックを受けていました。国連の去就が市民にとっての平和か戦争かの目安だったのです。
 インターナショナルスタッフが退避した後も、現地スタッフががんばってくれました。バグダッドには80人ほどの現地スタッフが残っており、脱出した私たちは(安否を気づかい)苦しい思いをしました。電話では、空爆のものすごい振動で子どもたちが怯えている、というようなことを聞きました。幸いに、現地スタッフの中に直接の犠牲者は出ませんでしたが、戦争の心労が重なって年老いた母が亡くなったとか、親戚がまきこまれた、というような話は聞きました。
 私自身はヨルダンとクウェートから緊急に必要な塩素ガス、ワクチン、給水車などの調達を行っていました。最大のジレンマは、最後まで人道援助の通り道がどこになるかわからなかったことです。軍隊はクウェートから、つまり南から進んでいきましたが、軍隊と一緒に入るのはどうか、というような気持ちが国連、人道支援関係者の間にありました。結局のところ、南から入ることになるだろうという予想はあり、そのようになりました。
 クウェートからバスラまでは120キロの道のりで、そのうち、国境からバスラまでは50キロほどです。道すがら各国の軍隊がいます。イタリアの軍隊などは2キロも連なっていて、ボリュームがわれわれのコンボイと全く違っていました。彼らは国境をポンと超えられますが、われわれ人道援助組は越境手続きの書類を24時間前にそろえて出さなければいけないという制約がありました。しかも、たとえば運転手が直前に病気になってしまっても、交代が認められず、すべてが台無しになってしまいます。クウェートの運送業者は安全が心配だということで私たちにエスコートを頼んできました。私は空手くらいしか覚えがありませんでしたが、ついていくことになりました。
 ワクチンはクウェートに飛行機で着いて、飛行場から直接冷蔵車へ持っていきます。きちんと冷蔵車が配置され、温度も設定されていないといけません。いくつもそうしたハードルを越え、無事バスラに着きました、ワクチン全部大丈夫でした、という報告を受けたときはうれしかったですね。

イラクの安全面 〜バスラにおける略奪〜
 以前、バグダッドは歩くのが本当に気持ちのいいところでした。仕事が夜の10時、11時に終わっても平気で歩いて帰ったものです。けれども、今はホテルの屋上から見ても、夜は通りに人っ子ひとりいないという状況です。今までピストルを持っていなかった人たちでも、年頃の娘がいたりすると新たにピストルを買う、ということもあります。
  略奪が相当話題になっていましたが、これは本当にすさまじかったです。バスラの病院にシーツや掃除道具などの荷物を運んでいたとき、院長さんが「ここまで略奪するのはイラク人のしわざとは思えない」と言っていました。自分で自分の首をしめるようなことです。あるとき、街灯のポールにクレーン車が止まっていたので、そろそろ街灯の修理をはじめたのかな、と思ったら、実は街灯のバルブを盗っていた、というような光景も目の前で見ました。翌日同じところで、今度は、ポール自体が倒されてとられていました。建物は配線まで引き剥がされました。配線のニッケル類は装飾品の光沢を出すために使われるらしいのですが…。
 ユニセフのバグダッド事務所も略奪にあいました。悔しかったです。略奪者の中には火をつけてしまえという人もいたようですが、近所の人達が協力をしてくれて必死になってとめてくれました。私は湯飲み茶碗をとられてしまいましたけれども…。机もいくつか残っていましたし、ファイルも無事でした。

イラクへ戻る 〜大忙しの毎日〜
 7月2日にバクダッドに帰ることができました。  まずバクダッドに帰ってきて、気付いたのは衛星テレビが増えていたことです。それまでは情報が操作されて見られませんでしたから、人びとは情報を求めています。それから、両替商が増えていました。給料が占領軍から支払われていますからドルが多くなったということです。物は高くなっていましたが、食べ物はあまり変わっていませんでした。私たちが食べるのは、ご飯、豆、トマト、たまねぎなどですが、変わりはありませんでした。

 帰ったその日から大忙しでした。使えなくなってしまった水道施設の修復や、学校の修復(2000校のうち1000校をユニセフが担当)、給水車(1日に100万リットル必要)、ポスターの印刷など、入札案件が本当にたくさんあったのです。
 地雷などの意識啓発用のポスターを作るのですが、イラクには、イラン・イラク戦争の頃から、不発弾や地雷が残っています。スーレマニアに住んでいたときは、季節的に洪水があり、もともと地図に従って埋められていた地雷も、場所が変わってしまっていたりします。バグダッドにしてもバスラにしても戦闘が起きたところでは薬きょうをもって遊んでいる子どもがいっぱいいます。子どもにはきらきら光るものはうれしいのでしょうが、事故にあう子どももいます。

イラク現地の会社
 入札案件が増えてきますから、現地の業者を探さなければなりません。ユニセフの場合、全世界どこでも同じようなシステムですが、品質管理が徹底しています。まず、(入札に応じる)すべての業者を登録しなければならず、そのために、書類審査と会社訪問が必要です。登録したが幽霊会社だったということもありますから。これまで、170社ほど会社訪問しました。しかし、イラクはもともと社会主義の国ですから、本来なら会社はありません。それに、イラクの会社のほとんどは親族ベースです。普通の株式会社とは違います。親族社会ですから、社長席に17歳の少年が座っていたりします。その子の親は部族のリーダでした。民間部門でそのような状態ですから、政治的にそのまま民主主義をもってきてあてはまるのかという疑問はありますね。
 登録した後、それぞれ入札が始まり、ひとつひとつのプロジェクトをユニセフが評価します。それらの結果をデータベース化して、管理するというのも私の仕事です。
  今回バグダッドで、7月2日から21日までの間に20社くらいを訪問しました。そのうち開いているのは5社ほどで、残りの15社はまだオフィスを開いていなかったり、バグダッドの外に物を置いているといった状態でした。やはり国家、国家機能が回復しなければ難しいのかなあと思います。

イラクへの期待
 私は、イラクに関して希望をもっています。人間、追い詰められればそれなりに力が出るのではないかと思うからです。私は、いろいろなところに行っているうちに、戦争は負けたほうがいいのではないかと考えるようにもなりました。たとえばタンザニアとウガンダで起こった戦争では、ウガンダのアミンという独裁者をタンザニアが解放軍として打ち負かしました。その後の両国を比較してみると、ウガンダの人は危機意識をもち、みんなでがんばろうとした結果、今では、ウガンダのほうが発展しています。

 あるとき、「本来ならイラクでは人びとが土木作業なんかをする必要がないんだ」と言っているのを聞きました。石油で豊かな国なのだから、ということでしょう。しかし、私はむしろ、こういったふうに働くことができる人間がいる、そのことがその国のプラスになると思います。私たちの先輩の日本人も第2次世界大戦後に勤勉さを推進力にがんばってきたことが彷彿とされます。

ユニセフの教育支援
 もちろん、子どもたちが健康的に育っていくことが必要です。子どもたちは、栄養状態が良くないので、日本人の子どもと比べてもかなり小柄です。そして、よく働いています。児童労働で学校に行っていない子もいます。
 ユニセフは、今、イラクで“バック・トゥ・スクール(学校へ戻ろう)”と“バック・トゥ・プレイ(遊び場へ戻ろう)”という2つのキャンペーンを行っています。バック・トゥ・スクールはアフガニスタンでもやっていましたが、学校に行けなかった子ども達に文房具や教材の支援をするというものです。私は去年の2月から2ヶ月間アフガニスタンに出張していました。当初、教育は物ではない、と思っていましたが、ある日、目をあげると子どもが本当にうれしそうに、支援した通学かばんを持っていて、それがうれしくて。生涯忘れられないです。

 これまで、外国が敵、という状況が続いてきましたので、昔、同じような経験をしてきた日本が手を貸すことは意味が大きいと思います。(このキャンペーンには、日本政府からも多額の支援をいただいていますので)バック・トゥ・スクール・キャンペーンの支援物資に“ジャパン”という文字をアラビア語で入れていこうとしています。

 バック・トゥ・プレイ・キャンペーンは、安全な遊び場を提供し、友だちと遊べる普通の環境を提供していこうというものです。今バスラを中心にサマーキャンプを行っており、450人の子どもが参加しています。

 イラク復興には、まだまだ、時間がかかります。プロジェクトも始まったばかりです。イラクはいい国なんです。しかし、そこで苦しんでいる人がいます。ご協力をお願いします。どうぞイラクを忘れないで下さい。

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■会場との質疑応答

Q:  自衛隊派遣以外で日本ができることは何でしょうか?
A: 会場  ユニセフとの関連でになりますが、日本は、水道、栄養、教育の3つの分野で協力できると思います。1980年当時、イラクでは1000人くらいの日本人が働いていました。イラク人は日本人に対していいイメージを持っています。今までいいイメージを持たれているところに、制服を着た自衛隊、というのはこれから日本のイメージに影響を与えるのかもしれません。

Q:  浄水システムの修復とメンテナンスに関して必要なものは国内で調達できていますか?
 アンマン−バグダッド間移動の際のセキュリティーはどのようになっていますか
A:  いえ、物資は国外からの調達がほとんどです。例えば浄水設備には塩素ガスが必要です。ちょっとした工業力があれば簡単に作ることができますが、イラク国内では作れません。浄水システムは浄水場とパイプラインの2つに分かれています。それらに必要なものも、イラク国内ではまだ調達できません。特にバスラでは、水の塩分濃度が高いので、塩分浄化を確実にする必要があり、そうした配慮も必要です。

 ヨルダンからバグダッドの道は長く、1000キロくらいです。まだ危険です。ヨルダンにはタクシーというか、客運業者がいます。戦前だと150ドルくらいでしたが、今は1000ドルくらいかかるかもしれません。道は広く、長く、砂嵐があります。ガソリンスタンドもあります。
 バスラにから北上して行く道もあります。北部3州は、今のところ、安全面では問題がありません。

Q:  バスラではROシステム(浄水システム)の修復が行われていますが、どういった型が輸入されていますか?
A:  今、それで困っています。OFFPのときは統一した形式だったのですが、今はいろんな団体がさまざまに持ちこんできていますので、ばらばらになっています。

Q:  現在、イラクにおけるメディアの活動状況についてどのように感じていらっしゃいますか?
A:  フリーで入ってくるジャーナリストが多いですね。世界の関心は薄れてきているということは感じています。

竹友有二 氏 プロフィール
1991年の湾岸戦争中のヨルダンの避難民キャンプでのボランティア活動をきっかけに、その後、アジア・アフリカ諸国でジャパン・ヘルプライン(NGO)、FAO(国連食糧農業機関)、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の主として緊急支援活動に従事。ユニセフには1999年に入る。タンザニア事務所勤務を経て、2001年より現職。
イラク戦争勃発直前までバグダッド事務所に勤務。3月18日、アンマン(ヨルダン)に退避。その後、クウェートに移り、イラク南部の人道支援物資の調達・輸送の管理業務に携わる。7月上旬にバグダッドに戻り、首都での人道・復興支援活動を再開。